吉田富夫忌
その日私は、名古屋考古学会の定期大会にゆき、最新刊の『古代人』の記事と吉田富夫の欠席に異変を感じた。しかし、それ以上に思うことは何もなかった。出席の人の多くがそうだっと思う。 さて、本会発足以来会長として発展のため御尽力…
続きを読む →その日私は、名古屋考古学会の定期大会にゆき、最新刊の『古代人』の記事と吉田富夫の欠席に異変を感じた。しかし、それ以上に思うことは何もなかった。出席の人の多くがそうだっと思う。 さて、本会発足以来会長として発展のため御尽力…
続きを読む →▲ 『中日新聞』、1970年3月19日。 ▲ 『朝日新聞』、市内版、1971年8月4日。 婦人学級から自主グループが誕生して、講義や体験学習を継続するとは、なんと理想的、模範的な社会教育実践であることか。 考古学と社会教…
続きを読む →検見塚に関する吉田富夫の希望すなわち保存活用論は、検見塚限りのものではなかった。 同じ時に吉田は、公園整備を間近に控えた見晴台遺跡(南区)を主題に、名古屋市の史跡公園について書いていた。 (略)上述のいろいろな遺構(住居…
続きを読む →検見塚がいまのような姿になることは、1969年にはわかっていた。 昭和44年、環状2号線計画道路が検見塚周辺を走ることが判明したため、貝塚周辺地域の試掘調査を愛知県教育委員会が調査主体となり実施した。検見塚周辺には都市高…
続きを読む →吉田富夫は書いた。 私の収集は、小学校5~6年のころ、コインを親からもらうのを楽しみとすることにはじまる。そして中学に進んで、歴史の時間に、尾張国分寺の跡が矢合にあって、当時の古瓦が出ることを聞いて、実地に臨むと、破片が…
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