失望の検見塚、希望の検見塚
検見塚がいまのような姿になることは、1969年にはわかっていた。 昭和44年、環状2号線計画道路が検見塚周辺を走ることが判明したため、貝塚周辺地域の試掘調査を愛知県教育委員会が調査主体となり実施した。検見塚周辺には都市高…
続きを読む →検見塚がいまのような姿になることは、1969年にはわかっていた。 昭和44年、環状2号線計画道路が検見塚周辺を走ることが判明したため、貝塚周辺地域の試掘調査を愛知県教育委員会が調査主体となり実施した。検見塚周辺には都市高…
続きを読む →1969年10月25日。 そのときはまだ、「目で見る名古屋の文化史展」最終日前日の土曜日でしかなかった。 そのときはまだ、考古学関係の新聞切り抜きのひとつにすぎなかった。 その約2ヶ月前、見晴台遺跡第8次発掘調査の終盤、…
続きを読む →吉田富夫は書いた。 私の収集は、小学校5~6年のころ、コインを親からもらうのを楽しみとすることにはじまる。そして中学に進んで、歴史の時間に、尾張国分寺の跡が矢合にあって、当時の古瓦が出ることを聞いて、実地に臨むと、破片が…
続きを読む →名古屋市博物館は1968年計画、1977年開館、名古屋市見晴台考古資料館は1971年計画、1979年開館である。これ以前、「大都市」名古屋に歴史系博物館はなかった。 「一九二〇年代後半、名古屋市は「大正天皇即位記念」「市…
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