吉田富夫の博物館論
博物館に関する吉田富夫の発言の最初がいつで、それはどのようなものだったのか──。 1969年に吉田は、次のように書いている。 諸外国では、どんな小都市でも、その町の歴史をひと目でわからせてくれる博物館を持っているという。…
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続きを読む →1971年11月21日に吉田富夫が急逝し、25日から新聞連載されたコラム「遺跡ここかしこ」を1冊に編集した『名古屋の遺跡百話(1)』が、吉田を追悼する唯一のまとまった書となった。同書の編輯と増補をおこなった大参義一は、「…
続きを読む →その日私は、名古屋考古学会の定期大会にゆき、最新刊の『古代人』の記事と吉田富夫の欠席に異変を感じた。しかし、それ以上に思うことは何もなかった。出席の人の多くがそうだっと思う。 さて、本会発足以来会長として発展のため御尽力…
続きを読む →1970年代前半、小原博樹に引率され見晴台遺跡の発掘調査に参加した男子中学生が、参加の感想を求められたとき、「運動ができるからよいと思う」旨の応答をした。それを聞いた小原が、「一瞬、運動のことかと思ってびっくりした」と、…
続きを読む →1981年頃を想い起こしていた。 瑞穂運動場で国際大会すなわちオリンピックの競技をおこなうためには、何メートルか足りないということで改築となった。まだ五輪開催が決まっていないのに。運動場は国指定史跡の大曲輪遺跡に立地して…
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