私たちは見晴台で、「大衆の考古学」を創造しようとしたのである。それが、小原博樹の言う「運動として見晴台に参加した」の「運動」の意であった。
「大衆の考古学」とは何か。理論的作業は長文だが、次のようにまとめている。
「歴史の原動力は、ただ人民だけであり、人民が歴史を創造する」ことを明らかにし、被抑圧階級のなまの姿を復元しうる考古学の方法論的特色を十分発揮するのが、「大衆の考古学」である。西欧帝国主義のアジア・アフリカ人民の抑圧政策のなかで生まれた排外主義的性格、暴虐的な天皇制ファシズムに屈服し、日本文化の中の朝鮮的性格、沖縄的性格、アイヌ的性格を抹殺し、多くアジアの人々への犯罪的行為=侵略戦争へ加担していった日本考古学を、正しく綜括し、発展させていく内容が、「大衆の考古学」である。全くばかげた学閥、セクト主義を排し、国際的にも、あらゆる国の人達との平和を願う(無論現実的に)なかで創造される考古学が、「大衆の考古学」である(1)。
換言すると「大衆の考古学」は、日本史・世界史を、考古学に外在的にするものではなく、内在的にするものである。前者は政治主義、後者は文化主義と言えようか。前者は、考古学そのものを問うことなく、政治に動員する(ヒキマワス)。後者は、考古学そのものを問い、政治も文化に還元する──。
全文を翻刻したいと考えている。
注- 「見晴台発掘と僕達の考古学─「職人の考古学」↔「趣味の考古学」を止揚し、「大衆の考古学」を創造しよう!─ 」 伊藤禎樹、犬塚康博、岡本俊朗、小原博樹、斎藤宏、桜井隆司、村越博茂、安田利之『名考会と見晴台に関する問題提起─その2』、1972年11月26日、13頁。↑