1971年11月21日に吉田富夫が急逝し、25日から新聞連載されたコラム「遺跡ここかしこ」を1冊に編集した『名古屋の遺跡百話(1)』が、吉田を追悼する唯一のまとまった書となった。同書の編輯と増補をおこなった大参義一は、「吉田富夫先生の先史文化研究(2)」を寄せて吉田の業績を解説、評価している。その約10年後、この文はリライトされて「吉田富夫先生の考古学(3)」になるが、このときV・G・チャイルドに関する記述が新規に加わった。
大参は冒頭近くでエピソードを披露する。
吉田先生の研究の業績について思いをめぐらす時、何時も私の頭に浮かぶのは、かのイギリスの考古学者V・ゴードン・チャイルドのことである。先生自身かって、チャイルドに傾倒している旨を私にもらされたことがあったが、この両先学の果たした学史的役割の中には共通する点が多いことを感ぜずにはいられない(4)。
チャイルドの事蹟を概観したあと、次のように書く。
このように考古資料によって原始古代の文化の総合体系化をはかり、研究法を開発し、啓蒙史家としてもすぐれた働きをし、文化財の保護にも情熱をもやしたチャイルドの多面的な活躍は、研究対象の地域こそ異なっていたけれども、吉田先生が果たされた学者としての役割と通ずるものがあり、私の頭の中で葉両者がダブって浮かび上がってくるのである(5)。
このあと吉田に関する記述の中心が展開され、文末近くになってふたたびチャイルドが登場する。
先生は自ら見晴台遺跡の全面的な発掘調査に意欲をもやして、健康のすぐれない晩年も、連日現場におもむいて発掘の指導にあたられた。あの温厚な人柄の中に、はげしい情熱が秘められていたわけである。チャイルドが、ファシズムにたいして、学問の立場からはげしい情熱をもやして反ばくをしたことが思いおこされる(6)。
以上が、チャイルドに関説した部分である。このように見来たると大参は、吉田とチャイルドのなんらかの関係を論証しているわけではないことがわかる。吉田が反ファシズムだったことを説いてもいない。政治的言説を多くする吉田ではなかったが、たとえば「小学国語読本巻十二第三「古代の遺物」について(7)」は、吉田が反ファシズムの人ではなかったことを示している。
それは大参も、承知のことであっただろう。ならば私たちは、なぜ大参はチャイルドのことを加えたのか、と正しく問わなければならない。チャイルドは、吉田の何かのメタファーだったのではないか。「見えないことを見るように」と、大参が言っているように思えるのである。
注