1970年代前半、小原博樹に引率され見晴台遺跡の発掘調査に参加した男子中学生が、参加の感想を求められたとき、「運動ができるからよいと思う」旨の応答をした。それを聞いた小原が、「一瞬、運動のことかと思ってびっくりした」と、うれしそうに話す場に居合わせたことがある。中学生が、身体を動かすことの意で言った運動を、小原は別の運動の意に受け取ったのである。小原にとって運動の語は、格別有意のように私には見えた。
小原の「運動として参加した見晴台(1)」とは何だったのか。
そのひとつは、逆説としての「運動として」である。調査としての(=素朴調査主義)、研究として(=研究主義)への反対である。調査のためだけの見晴台、研究のためだけの見晴台、つまり考古学だけの見晴台への反対である。大学で考古学を学んだ、小原ゆえのアンチと言える。そして小原自身、1977年に、考古学に関する蔵書を、仮設だった見晴台考古資料館に寄贈して、自己の考古学と訣別する。
もうひとつは、順説としての「運動として」である。どういう運動だったのか。オフィシャルな文章を引けば、次のとおりである。
発掘期間中、見晴台では、数々の企画を試み実行に移していった。毎日の見晴台ニュースの発行、案内板の設置、作業前後の集会、周辺遺跡の見学会、参加者全員の討論会等は、参加者が見晴台遺跡の性格と調査の目的をできるだけ理解しあい、同時に、発掘を通じて考古学の方法をともに学んでいくための試みであった。さらに、見学者へのニュースの配布と説明、現地見学会なども企画実行された。このような企画を通じて、見晴台遺跡の保存と活用への一般市民の参加の糸口は、わずかずつではあっても開かれてゆくであろう(2)。
「市民参加」である。見晴台遺跡の市民参加運動と、仮に呼んでおこう。
ところで、この活動のメニューを見て想起するのは、満洲国国立中央博物館がおこなった博物館エキステンションである(3)。博物館エキステンションは、恐慌後のアメリカの博物館がおこなったmuseum extentionを参照した活動で、museum extentionは従来サービスを届けることのなかった地域、住民、総じて社会に博物館を拡張する運動であった。あらためてこの経験を踏まえれば、見晴台の運動は、見晴台を市民に拡張する見晴台エキステンションであり、考古学を主語にすれば考古学を市民に拡張する考古学エキステンションであったと言うことができる。その上で小原の関心の中心が、見晴台エキステンションの方にあったことは言を俟たない。
1979年に考古資料館が開館し、職員が配置され、見晴台エキステンションは行政の制度となった。満洲国の博物館エキステンションも、戦後日本の博物館法に越境して「定着」した。
わたしはいつしか見晴台とは疎遠になってしまったが、教育現場の一つの問題としてこだわり続けている(4)。
1985年に小原がそう書いたのは、運動が去ったことの別の謂いであった。
注- 小原博樹「韓国、朝鮮問題、差別撤廃運動と岡本さん」岡本俊朗追悼集刊行会編『岡本俊朗遺稿追悼集 見晴台のおっちゃん奮闘記─日本考古学の変革と実践的精神─』、岡本俊朗追悼集刊行会、1985年8月2日、179頁。↑
- 『見晴台遺跡第10次発掘調査の記録』、見晴台遺跡第10次発掘調査団、1972年12月1日、6頁。↑
- 犬塚康博「満洲国国立中央博物館とその教育活動」『名古屋市博物館研究紀要』第16巻、名古屋市博物館、1993年3月30日、11-50頁、同「再び満洲国の博物館に学ぶ-危機における博物館の運動論」『美術館教育研究』Vol.8、No.1、美術館教育研究会、1997年3月1日、3-12頁、など。↑
- 小原博樹、前掲論文、179頁。↑