▲ 『見晴台発掘ニュース』No.10(臨時増刊号)、見晴台遺跡発掘調査団、1972年8月6日、1-6頁。
見晴台遺跡第10次発掘調査で、はじめて「現地見学会」がおこなわれた。1972年8月6日(日)の午前、午後の2回。翌日の『見晴台発掘ニュース』は次のように伝えている。
見学会! 成功のうちに終わる!! 約400人の市民を向えて!!
昨日は、市民に呼びかけて発掘見学会が行なわれました。すでに数日前からこの見学会のために、わたしたちは付近の家々にビラ配りをしたりしていろいろな準備をしてきましたが、その努力の成果があってか、午前・午後2回の見学会にいずれも200人近い市民の参加をかちとることができました。これは、おそらく見晴台はじまって以来の人間ラッシュだったと思います(1)。
現地見学会は、いくつかの事業のひとつとしておこなわれた。
発掘期間中、見晴台では、数々の企画を試み実行に移していった。毎日の見晴台ニュースの発行、案内板の設置、作業前後の集会、周辺遺跡の見学会、参加者全員の討論会等は、参加者が見晴台遺跡の性格と調査の目的をできるだけ理解しあい、同時に、発掘を通じて考古学の方法をともに学んでいくための試みであった。さらに、見学者へのニュースの配布と説明、現地見学会なども企画実行された(2)。
参加者向けと見学者向けの事業があった。両者を通じて、「見晴台遺跡の保存と活用への一般市民の参加の糸口(3)」を開いていこうとしたのである。
「市民参加」それ自体は、過去の調査でもおこなわれていた。会員非会員を問わず何らかのかたちで名古屋考古学会に有縁の人であれば参加することができた。このことはハードルの高さを言っているのではない。蓬左グループが参加していたし(4)、私も中学生で参加することができた。
しかし、それはあくまで考古学プロパーとその周辺という「内部」にとっての市民参加であり、第10次発掘調査以降求められたのは、「内部」と「外部」すなわち非考古学プロパーとの障壁の撤廃であった。先の現地見学会の報告は、次のように続けた。
薄曇りの空もようとはいえ、風のないむし暑い状態の中で、約30分の大参先生の話に熱心に耳をかたむけ、遺構に目をくばる人々のようすをみて、みなさんはどう感じたでしょうか? なにかみせ物みたいでいやだ!だとか、発掘の邪魔になる!だとか言っていた人もあるようですが、見晴台遺は決してわたしたちだけのものではないのだ!ということを充分考えてほしいと思います(5)
そして、「見晴遺跡はみんなのものだ!と大声で言えるような発掘、さらには史跡公園をきずくために、これからも見学者を暖かく向え、見晴台遺跡を充分理解してもらおうではありませんか(6)」と結んでゆくまで、くどいくらいに見晴台遺跡の開放の意義、方法を説いていた。
いまや発掘調査の見学会は、工程化して、「内部」と「外部」の障壁を隠蔽し、専門権力を固定化するまったき装置である。しかし、見晴台遺跡では、これに対立するものとして始まった。その意味で、『見晴台遺跡第10次発掘調査の記録』の表紙・裏表紙に、見学者と参加者が集合する現地見学会の写真を使用したのは、「社会教育としての見晴台」の正しい表象だったのである。
▲ 『見晴台遺跡第10次発掘調査の記録』、見晴台遺跡第10次発掘調査団、1972年12月1日、表紙・裏表紙。