その日私は、名古屋考古学会の定期大会にゆき、最新刊の『古代人』の記事と吉田富夫の欠席に異変を感じた。しかし、それ以上に思うことは何もなかった。出席の人の多くがそうだっと思う。
さて、本会発足以来会長として発展のため御尽力いただきました吉田富夫氏に11月より会長をやめていただきました。まことに残念なことではありますが、同人会にて数次にわたり討論しての結果ですので、会員各位におしらせ致します。
その理由は「見晴台遺跡発掘団」の性格が同人会の問題となりました。すなわち名古屋市教育委員会社会教育課は名古屋考古学会へ見晴台遺跡の発掘を一度も依頼したことはなく、名古屋市文化財調査委員の吉田富夫氏へ団長を依嘱したと言明しており、吉田氏自身もまた10月の同人会でその通りであったと證言せられた。すなわち名古屋考古学会が見晴台遺跡の発掘には一度も参加したことはないという解釈であります。これにより、当会は吉田会長により無視されていたという事実がはっきりしました。かかる誤解は吉田氏が会長である限りづっとつづき、無用の混乱をまねきますので会長の地位をさっていただいたわけです(1)。
その日、奥さまが帰宅されると、ご主人は亡くなっておられた。奥さまはどうしてよいかわからず、隣家に助けを求められた。隣人は、そのままにして連絡されるようすすめた。
(筆者はさる21日に死去した市文化財調査委員吉田富夫氏、本稿は同氏の絶筆である)(2)。
11月25日から翌年3月20日にかけて、『中日新聞』市民版の題字下に「遺跡ここかしこ」が100回連載される。主なきまま。
昨年の11月21日、定期大会を名古屋市瑞穂図書館で盛会裡に終了したが、同日夕刻元吉田富夫会長が急逝されたことを翌日知らされ、思いもかけぬ悲しみであった。23日午後2時、自宅で告別式があり多数の会員、同人がお別れに集り、会も御仏前を供えた。
本号では故人と永い御交際のあった北村斌夫先生におねがいをして故人の面影を綴っていただいた。吉田先生の御冥福を祈る(3)。
みんな、イントラ・フェストゥム(木村敏)だったのだ。
8年後には見晴台考古資料館を見られたのに。
6年後には博物館が見られたのに。