1988年にわたしは書いた。
戦後40年以上が過ぎ、考古学を取り巻く状況は大きく変化した。考古学もまた変貌した。都市の再開発とイベント、地上げと地価の高騰。土地をめぐる話題の尽きない昨今である。考古学は、土地に刻まれた歴史を解明する学問であった。土地に深くかかわる考古学はどう移ろっていくのであろうか。この時代も、いつの日か一つの風景として記憶されることになるであろう(1)。
文末の「風景」、すなわち展示タイトル「考古学の風景」の「風景」は、松田政男の風景論に依る。松田は、自身が製作を担当した映画『略称・連続射殺魔』(1969年)で、「ただひたすら永山則夫の眼もまた見たであろうところの各地の風景のみを撮りまくっ(2)」た理由について、次のように書いていた。
ひとえに、風景こそが、まずもって私たちに敵対してくる〈権力〉そのものとして意識されたからなのである。おそらく、永山則夫は、風景を切り裂くために、弾丸を発射したに違いないのである。国家権力ならば、風景をば大胆に切断して、たとえば東名高速道路をぶち抜いてしまう。私たちが、快適なドライブを楽しんだ時、まさにその瞬間に、風景は私たちを呪縛し、〈権力〉は私たちをからめとってしまうのだ。だから、情況も、情け無用の状況も、いまの私たちにとってはどうでもいいのだ、とあえて言っておこう。私たちは、風景をさえ超えていないのではないか(3)。
この風景論は、わたしのウェブサイト「博物館風景」にも継続した。ちなみに、「博物館の風景」にしなかったのは、同名の書籍がこの世にあり、松田の風景論とは無縁なそれに連なる印象を避けたためである。
先の「考古学の風景」は、江戸時代から1945年8月15日までの「名古屋における発見と調査のあゆみ」であった。戦後論は未発である。後の大須二子山古墳の個別研究(1989-1990年)や、『新修名古屋市史』第1巻(1997年)叙述の途上、期せずしてその一端に触れることはあったが――。
その戦後論に進もうと思う。ついては前回の終点から始めず、わたしを出発点とする。それは、わたし「に敵対してくる〈権力〉そのものとして意識された」「風景」が現前するからであり、わたし自身が戦後論の只中にあるからである。松田政男の言葉を借りれば、こういうことになろう。
内に向っては、ついに不可能性の領域にまで突き抜ける想像力の極限での駆使として、そして、外に向っては、私たちを呪縛する〈権力〉としての風景もすべて密室に変えてしまうまでの強靱な方向性をもって、私たちは、ただひたすら、考え抜かなければならぬのだ(4)。
諾。ウェブサイト「考古学の風景」を開始する。
注