検見塚に関する吉田富夫の希望すなわち保存活用論は、検見塚限りのものではなかった。
同じ時に吉田は、公園整備を間近に控えた見晴台遺跡(南区)を主題に、名古屋市の史跡公園について書いていた。
(略)上述のいろいろな遺構(住居跡、濠状遺構、貝塚のほか、当時トピカルだった焼失住居跡、縄文晩期貯蔵穴など──引用者注)がそのまま展示されたり、復元家屋が建てられたりすることになるのも、もうそんなに遠い日のことではあるまい。そして完成の暁には、果実や花粉の調査で知られるはずの林相をそなえ、発見された獣骨等に基づいて、シカ・イノシシなどを飼い、当時の自然環境をもできる限り復元し、できれば夏季などのキャンプに復元家屋を貸して弥生時代の生活を実際に送らせてみてはどうかなどと、夢は果しなくひろがっていく(1)。
史跡公園のイメージはオーソドクスである。吉田は、1966年8月に登呂遺跡と蜆塚遺跡を見学しており、これらの成果も勘案した当時の平均的水準だったと想像する。ちなみに、吉田の挙げた項目のうち現在までに実現されているのは、遺構展示、復元住居、林相の復元である。
これに続けて、史跡公園の博物館施設についても、吉田は言い及ぶ。
ここから出土した遺物は、もちろん小博物館に展示され、復元図・想像図などを豊富にまじえて、理解を容易にさせる。学習室もあって、いつも一学級ずつ引率されて来た社会科の実習クラスが、スライド等による学習のほか、粘土を使って土器を作つてみたり、破片から実測図を書く方法を教わったりしたら、どんなに楽しいことであろう。一日も早く完成するのを期待しようではないか(2)。
学校教育の延長のイメージとともに、専門教育でおこなわれる考古学実習の要素も見られて、考古学プロパーの博物館像となっている。
こうした見晴台遺跡でのプラクティスを導き手としながら、鉾ノ木貝塚(緑区)、小幡長塚古墳(守山区)、瓢箪山古墳(同)、白鳥塚古墳(同)、白鳥第1号墳(同)、東谷第16号墳(同)を挙げて、名古屋市における史跡公園継続の可能性を説き、さらに古窯跡の保存にも言及するのであった。
ところで吉田富夫の史跡公園論は、同じく見晴台遺跡の公園化に関して各論を列記した「保存に関する意見」が、1966年に披露されている(3)。これを発展的に継承したのが、上記の所論とみなせる。ちなみに、このときは「史跡公園」の名称を用いていないが、2年後の1968年になると「史跡公園」の語が登場する(4)。これは、行政における公園計画の性格変更に拠っていた。
閑話休題。吉田の史跡公園論は、長らくそれのみが単独でおこなわれてきたが、ここではそうでなくなっている。
そこで工事計画を曲げても永久保存を要する場合と、計画通りに工事の実施はするが、事前に発掘調査を行なって記録保存にとどめる場合とができて来る。前者の場合には史跡公園設置という考え方が、後者の場合には博物館という施設の必要が浮かび上がって来る(5)。
史跡公園論は、博物館論とともに構造化されていることがわかる。博物館論は別に見る予定だが、総じて、開発と保存を前にした埋蔵文化財処遇のリアリズムであり、そのなかでも史跡公園は、より原理主義的位置を占めていたと言える。
しかし検見塚は、「工事計画を曲げても永久保存を要する場合」に相当しながら、愛知県指定史跡でありながら、史跡公園とはならないことが予想された。検見塚の不具を吉田が危惧していたことは、先に見たとおりである。吉田のリアリズムを否定する現実が、将来されようとしていたのであり、現にそうなるのであった。
注