考古学と社会教育と


▲ 『中日新聞』、1970年3月19日。


▲ 『朝日新聞』、市内版、1971年8月4日。

婦人学級から自主グループが誕生して、講義や体験学習を継続するとは、なんと理想的、模範的な社会教育実践であることか。

考古学と社会教育──。たとえば「考古学と社会教育はいかにあるべきか」という問いを立てることも思いつかないほどに、いまでは自明の両者である。社会教育法-博物館法上の学芸員を流用、濫用して、埋蔵文化財担当職員に充当してきた世俗的事情もあるに違いない。もちろん、そうでない自治体、企業があることは百も承知である。

ところで、名古屋市において、考古学と社会教育の共存が明示的になったのはいつ頃からだろうか。見晴台遺跡発掘調査で概観すると、第9次以前の報告書に「社会教育」の語はなく(1)、第10次のそれから登場する。

見晴台遺跡の調査を、一方では科学的な調査研究の場としていくとともに、他方では多くの市民に支えられた文化活動・社会教育の場としていくことが強く意図されていたからである(2)

これは、名古屋市見晴台考古資料館じしんも引用しており(3)、記念碑的な一文である。これが発掘調査について説くのに対し、次は見晴台遺跡総体に言い及んでいる。

さいわい、見晴台遺跡は史跡公園として保存することが決定され、資料館の建設も予定されて、市民の社会教育と歴史教育の場として活用する方針が明らかにされている(4)

考古学と社会教育の語の存否は、奇しくも発掘調査団団長が吉田富夫の時代(第1~9次)とその後とに分かれるかたちとなった。当の吉田も、史跡公園論や博物館論を披露しながら、そこに「社会教育」の語はなかった。吉田に限らず、考古学関係者の術語に普及していなかったと言ってよいだろう。学芸員有資格者を採用するシステムが登場し、資格を取得することを目的とした個人、世代が登場して、はじめて意識されるようになってゆく。1951年に博物館法が制定され、学芸員の制度が誕生してようやく20年が過ぎる頃のことであった。

そして「社会教育」の語は、従来の考古学関係者には、役人用語ととらえられることも往々にしてあった。さらにこの傾向は、学芸員として行政に内在した考古学研究者にも、こののち散見することになってゆく。これは、ひろく博物館一般に見られる、「研究」と「教育」の対立に通じる問題群、その一端と言うことができるが、別の機会に考えてみたい。

それはさて措き、吉田富夫と蓬左グループ。考古学と社会教育が、たがいをよく知ることがなくても、おおきな物語─たとえば国民国家のような幻想─のもと無自覚にあったからこそ築きえた理想的、模範的関係。とりあえず、そのように記憶しておこう。

  1. 名古屋市教育委員会編『見晴台遺跡第I・II・III次発掘調査概報』、名古屋市教育委員会、1966年3月25日、1-72頁、同編『見晴台遺跡第IV・V次発掘調査概報』、名古屋市教育委員会、1968年3月31日、1-58頁、『名古屋市南区見晴台遺跡第IX次発掘調査の記録』、見晴台遺跡発掘調査団、1971年10月1日、1-13頁。
  2. 『見晴台遺跡第10次発掘調査の記録』、見晴台遺跡第10次発掘調査団、1972年12月1日、1頁。
  3. 『─第20次記念─見晴台遺跡発掘調査のあゆみ』、名古屋市見晴台考古資料館、1981年7月20日、28頁。
  4. 『見晴台遺跡第10次発掘調査の記録』、15頁。
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