野並谷1号墳 〔2〕

野並谷1号墳の調査報告は、以下のとおりである。同古墳に直接かかわる記述は短いため全文を掲出し、これに後続する古墳の一般的説明は省略した。

これも我々の良き先生であるところの飯尾さんが、以前からこの野並地区をくまなく歩いて遺跡をさがしてこられ、幾多の窯跡や包含地などを発見されている。今度調査した古墳もその際に見つけられたものである。その時の話によると、三面を低い山で囲まれた小さな谷に、こんもりと木が生い茂り、ポツンといかにも不自然にあったそうで、さらにその周囲が堀になっていたとさえ思われるような形をし、湿地帯をなしていたそうである。後で調査の為、我々も同行したが、やはり同感であった。ここに書くのは、その時のおおよそのあらましです。調査は、十一月七日・十四日でした。古墳の発掘は今回が初めてなので、大へん興味をそそりました。しかし、発掘というものは、一種の破壊とも言えるため、この貴重な資料には、万全かつ真(ママ)重をきして行ないました。我々の見たところでは察しがつかないのですが、飯尾さんの、どうも前方後円墳らしいとの話を聞くと、なるほど●うなずけるところがあった。ともかく、木の生い茂っているのをスコップでかき分け上に上ってみました。ヨレヨレの服に長グツ、背にはナップサックを背負い、手にスコップを一丁といういわゆる未開地用発掘スタイル?で行ったので、大へん楽をしました。上ってみると、どうも後円部が西向きのようでした。その後後円部中央部付近に、何か土を掘り返したような地層の現われている所があった。これはどうも以前に盗掘をやった跡らしかった。古墳には昔しから盗難におそわれて貴重な副飾品などの遺産がフイになるケースが大へんに多く、特に鎌倉時代には、盗掘ブームさえ巻き起ったそうである。非常に残念な事である。我々は一応その部分にトレンチを50センチ四方程設けた。松などの枝が邪魔をして掘るのに苦労した。そこのところの土は大へん小石まじりでやわらかく、スコップが、サクッ、サクッとはいり予想通りきれいに中央部の重要なところだけ盗掘をした跡だということがはっきりした。これでは手の施しようがないので、遺構がどこまで伸びているか末端部分だけでも調査しようと、トレンチを東に50センチばかり広げた。幸にも、末端部だけは、取り止めることができた。さっそくきれいに掃除をして記録することにした。これは粘土槨といって、後で埋葬について参考資料によってそれに関連したことを書いておくが割竹形木棺を直接土中に埋め外面を全部厚く粘土●包むもので、何年かたって木が腐っても粘土だけが残るものである。(1)

津田素夫「野並谷1号墳について」(挿図)
▲ 津田素夫「野並谷1号墳について」(挿図)
津田素夫「野並谷1号墳について」(挿図)
▲ 津田素夫「野並谷1号墳について」(挿図)
津田素夫「野並谷1号墳について」(挿図)
▲ 津田素夫「野並谷1号墳について」(挿図)
(つづく)

  1. 津田素夫「野並谷1号墳について」『あゆち』創刊号、名古屋市立桜台高等学校歴史クラブ、1966年3月19日、85–86頁。
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1件のコメント

  1. 桜台高校歴史クラブの「あゆち1号」懐かしい!!
    岡本俊朗「年魚市」にするか否かの激しい論議の後、
    岡本氏の強引な主張で「あゆち」に会誌名が決まりました。

    桜本町の小生の家で、各氏・桜井、津田、佐野・・・飯尾も
    交えてとの大きな声で論争がおきました。
    結果、声の大きい者勝ちで岡本案になりました。

    控えめな桜井、津田、佐野・・各氏は押されっぱなしの状況。

    津田氏は粛々と、自分の割り当て原稿を書いておりました。
    その一つがこのレポートです。
    桜台東フェンスの南北断面、多くの竪穴住居址のが現れ、
    津田氏らが、実測図を作成し、考査論も彼の業績。

    みんな血の燃えたがる元気な若者でした。ブレーキの
    利かない民間若人の考古パワーが、完全燃焼中。

    今の行政考古担当の元気のなさ・・・ ヤル気の失踪失念者
    前向き意欲、情熱、覇気が微塵も見られないのと・・・ この
    桜台高校生との、あまりにも好対照の思いを抱くのは・・・

    僕だけかも・・・ 

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