検見塚がいまのような姿になることは、1969年にはわかっていた。
昭和44年、環状2号線計画道路が検見塚周辺を走ることが判明したため、貝塚周辺地域の試掘調査を愛知県教育委員会が調査主体となり実施した。検見塚周辺には都市高速道路のためのインターチェンジが設けられその中での検見塚周辺地域遺物稠密部分の保存が確定的となったが(1)、(略)
同様のことは、1971年3月、朝日遺跡群保存会の要望書に対する回答でもおこなわれていた。
検見塚周辺については環状2号線計画にともない減失する部分については記録保存をはかり、検見塚は環状2号線インターチエンジ内で保存整備するよう、建設省および町当局と協議を進めている(2)。
あくまで保存と言い張るのである。木で鼻をくくったその物言いは、人々を失望させた。
さらには検見塚地区のシンボルともいえる県史跡の検見塚貝塚は残すとはいうものの、インターチエンジというコンクリートで挟まれた隔絶した別天地に仕立てあげようとしている。文化財保護に最も力を入れてしかるべき監督機関がかような態度を既に公表してしまっている事は、私たちを始め研究者、一般識者を落胆させてしまった(3)。
失望の検見塚。人々は去り、別の人々が集り、今日の検見塚ができあがった。
ところで、1969年12月と1971年1月にかけておこなわれた前記「貝塚周辺地域の試掘調査」すなわち朝日貝塚予備調査の、調査主任をつとめた吉田富夫は、調査報告で次のように書いていた。
インターチェンジは平面交叉をするよう設計されてはいるが、さしあたり菱形の外縁に連絡道路が開かれるにとどまるというから、菱形に囲まれる全地域が道路面およびその他の何等かの施設に蔽われるわけではなく、県指定史跡である検見塚およびその周辺も、当然原状を変更することなく保存されるはずである。しかしできることなら、検見塚も孤立させてただ車中より望見させる程度にとどめず、四囲の道路を潜るなりして検見塚に近づき、あるいは登れるようにするとか、貝層断面なども地下水の排水を考慮しつつ見られるように工作したいものである(4)。
検見塚のゆくすえを、吉田も愛知県から聞かされていたのであろう。しかし、県のように「保存」を言うことはない。「保存されるはずである」という確信のかたちで道理を説くのは、そうはならずに無理が罷り通ってゆく危惧を吉田が抱いていたからに違いない。希望を列記するのもそれ故のことなのである。
繰りかえそう。
しかしできることなら、検見塚も孤立させてただ車中より望見させる程度にとどめず、四囲の道路を潜るなりして検見塚に近づき、あるいは登れるようにするとか、貝層断面なども地下水の排水を考慮しつつ見られるように工作したいものである(5)。
「孤立させて」いるではないか。「ただ車中より望見させる程度にとどめ」ているではないか。「四囲の道路を潜る」は果たされている。がしかし、「検見塚に近づ」けなければ画餅である。当然「登れ」などしない。蜆塚遺跡の貝層断面観察施設(1960年)を念頭に置いたかのごとき当時としては先進の「貝層断面なども地下水の排水を考慮しつつ見られるよう」な「工作」もない。どれひとつ実現されていないではないか。吉田の心配していたとおりの検見塚である。
吉田の希望はドラスチックなものではない。吉田のキャリアと良心の賜である。そうした考古学的、教育的配慮すらも許さない状況は、ひとこと暴力である。
希望の検見塚、ただひとつ、初発における──。
▲朝日貝塚予備調査 第5地点 1969年12月または1970年1月