今回は、明治44年(1911)の地図(1)で、天白・元屋敷遺跡の一帯を見てみよう。
低地に神社の記号があり、その西方に広葉樹林が見られる。神社の北東一帯は、白抜きで描かれた広い畑地となっている。ふたつの道が段丘上から続き、庄内川堤防のきわで合流している。
この図を都市計画基本図(2)に重ねると、まず、神社は熊野権現の位置に等しく、広葉樹の記号があるため社叢を有していたことがわかる。西方の広葉樹林は天王の位置に重なるが、神社の記号がないところから、このときすでに社地ではなくなっていたものと思われる。広い畑地は、天白・元屋敷遺跡の微高地とほぼ重なる。これは南東まで拡がっており、びぎゃあてんとちゃぱたに想定した微高地に接触してもいる。広葉樹林もまた微高地であり、江戸時代の集落があった場所の一部とみて差し支えない。
多少問題となるのが、道である。明治44年の地図と1972年の都市計画基本図は作製方法がちがうため、厳密に正しく重ならないことは言うまでもない。その上で、まず、諏訪神社からの道は、段丘上ではずれているものの、段丘下で一致するため、当時は境内を抜けて低地へおりてゆくコースだったのかもしれない。引き続き北西方向にゆく道も、こまかくずれるものの大局的には同一コースをとっている。微高地を過ぎてからは、中世城館の北辺に沿って進み堤防下にいたる。
山嶋からの道は、段丘をおりる直前で二手にわかれる。あるいは図がずれているために、段丘の下でわかれたのかもしれない。いずれにしても、都市計画図より南に三叉路がある。東側の道は、土地区画の境界を微妙に沿いながら北へゆき、中世城館の西で折れて進んだ先で、諏訪神社からの道と合流する。
道を問題にするのは、江戸時代の村絵図との関係からだが、特に山嶋から下った付近の理解は今後の検討課題である。念のために、撮影年不明(1974年以前)の空中写真と重ねると、都市計画図と重ねた際の印象を追認することができる。
注