中志段味・湿ケ遺跡の狐塚

「中志段味B遺跡周辺遺跡等分布図 」
▲ 「中志段味B遺跡周辺遺跡等分布図(1)」(部分)

狐塚は、大字中志段味湿ケ2013番地。

▼野田一三さんの奥さんが、1957年頃にこの土地を購入した際、前所有者が10年程「地租」を滞納していた事が解かり、不審に思って調べられた。
▼それによると、昔「狐塚」と呼ばれたとても大きな塚があって、上志段味の方の人が子供を戒める時に「狐塚に捨てるぞ」と言ったように、昼中でもうっそうとした森だったという。
▼明治年間、県道多治見線の拡張時に、この塚を崩して軌道の盛土にした。この時、「土器や刀や槍(鉄でできていたものは錆びていた)」が沢山出土した。地元では、これは墓ではなく、小牧山の戦の時、武士を棄て百姓になった人達が、武器を隠した場所と考えていた。その後、軌道から外れた部分の土地を字の所有とし、青年会が耕作権を持っていた。そして、ここでお日待ちやその他の祭をしたという。
▼戦後、青年会が実質的に機能を停止した後は、個人が所有?又は借用?していたらしい。
▼出土品は、諏訪神社の社務所にあると聞いていたので調べてみたがそれらしいものは無かったとの事。
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▼江戸時代、1792(寛政4)年の村絵図(財団法人徳川黎明会蔵)には、「狐塚」という字名が見られる。現在はない。
▼1888(明治21)年の「土地整理図」によれば、字湿ケ2013–1番地と2013–2番地にかけて、不整円形の区画が見られる。県道多治見線の軌道予定線が引かれており、破壊直前の図面と思われる。
▼「まず、湿ケの塚は、県道多治見線にかかったため、明治年間に壊されている。その際出土した土器と刀の鍔を、地元の青年団が保管したが、紛失してしまったという(野田実さんの話による)。」(岡本正貴1983 「守山区の古墳」)

【参考文献】
○岡本正貴1983 「守山の古墳」
(『もりやま』第2号 守山郷土史研究会(2)

  1. 『志段味の歴史を見て歩こう!』、志段味の自然と歴史に親しむ会、1984年、13頁。
  2. 同書、12頁。
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