▲ 「中志段味地区遺跡分布図(1)」(部分)
1984年12月16日に、志段味の自然と歴史に親しむ会が中志段味で開催した見学会には、折り込み図版1、全58頁のパンフレット『志段味の歴史を見て歩こう!(2)』が用意されて、貴重な情報を多く提供した。そのうち、「中志段味A遺跡」の項目に、次の記載がある。
▽1884(明治17)年の「地籍字分全図」によれば、以下の記載がある。(氾濫原関連分のみ)
・「塚」・・・字宮浦、細長い区画(1048番地。当時―以下同)[残存。現在の地点は4–付2。]
・「村社」・・・字宮浦、三角形の区画(1108番地)
[残存、現在の地点は4–付3。尚、教育委員会が発掘調査を行なう「B地点・F地点」は、この中に当たる。]
・「小社」・・・字西田。台形の区画(1432番地)
[滅失。守山高校敷地内、4–付4]
▽江戸時代、
17921796(寛政48)年の村絵図に(財団法人徳川黎明会蔵)には、この地に「熊野権現」と「天王」の二つの神社が載っている(3)。
このうち最初の「塚」は、前回の記事の写真の⑤である。別の機会に詳述したい。
寛政8年の村絵図と対比すると、「村社」は「天王」に、「小社」は「熊野権現」にあたる。1984年頃に94歳だった人の話では、熊野権現の場所を「おみやばた(お宮畑)」、天王の場所を「てんのうやぶ(天王薮)」と呼ぶことのほか、「熊野権現は7歳、8歳の頃まであった」「天王さんには提灯を灯しにいった」などの証言を得ている。
注