(14)前回までの検討で、天白・元屋敷遺跡の範囲は、上図のように推定されることになった。赤色に塗ったところはあきらかな「畑」、茶色に塗ったところは微高地(字東海道の推定分を含む)、橙色に塗ったところが字元屋敷の居館跡である。検討が一段落したところで、今回はそれにともなう問題について考えてみたい。
字宮浦(東半)の、「いどのもと(井戸の本)」「つかのにし(塚の西)」「のぐろ」「つじのまえ(辻の前)」一帯の水田は、びぎゃあてんのように土が削り取られたものかもしれないが、その積極的根拠が見出せないため、もとからの低地だったと理解しておきたい。その上で、字宮浦を考えてみよう。
野田美幸は、「宮前はお宮の前と字を見れば分かりますが、宮浦だけは変だと思いました。浦が表裏の裏ではないのです。バス会社の人が、富士塚のふじを富士山の冨士ではなく、藤の花の藤と間違えたように、これも間違いだと私は思いました(1)」と書いていた。字宮前、字宮浦の「宮」が、かつて存した熊野神社を指していると、野田は考えたようだ。しかし字宮前の区域は、段丘下の低地だけでなく段丘上にもわたり、現在の諏訪神社も含むため、諏訪神社の前という意味も否定できない。その場合、字宮浦の「うら」は、諏訪神社の裏とはならなくなる。
そこで、字宮浦を次のようには考えることはできないだろうか。つまり、「陸地が湾曲して湖海が陸地の中に入り込んでいる地形を指す。特に浦・浜は、前近代において湖岸・海岸の集落(漁村・港町)を指す用語としても用いられていた(2)」の「浦」でよいのではないか、と。
その理由の第一は、自然地理的に字宮浦の東半分は低地であり、東半とびぎゃあてんに挟まれて「陸地の中に入り込んでいる地形」であった。第二は、人文地理的に、天白・元屋敷遺跡の発掘調査で中世の川湊がクローズアップされていることがあげられる。この「陸地の中に入り込んでいる地形」が、中世の川湊そのものではないとしても、時期がくだり、川湊は衰退、規模も縮小し、かろうじて神社に附属して営まれていた港、つまり「宮浦」なのではないかと考えられるのである。
敗戦後のころまで、中志段味の江畑の集落には複数の船頭がいたことがわかっている(3)。中志段味低地に集落があった江戸時代には、必ずや多くの船頭がいたはずであり、彼らの船が停泊し、係留し、出入りする港のあった可能性は、きわめて高いと言える。
ところで、川や港、入り江の遺跡を考えると、微高地だけが遺跡ということにはならなくなってくる。遺跡の可能性は、低地にもおよぶ。今回考察した、字宮浦東半の低地が該当する。天白・元屋敷遺跡は、さらに広大な範囲においてとらえられなければならず、そのための保存と調査がテーマになるだろう。
注