吉田富夫は書いた。
私の収集は、小学校5~6年のころ、コインを親からもらうのを楽しみとすることにはじまる。そして中学に進んで、歴史の時間に、尾張国分寺の跡が矢合にあって、当時の古瓦が出ることを聞いて、実地に臨むと、破片が落ちていて、これを手にしたのが、考古学に足を踏み入れたはじめである。
その後その熱がこうじて、昭和2年に愛知県史蹟名勝天然記念物展覧会が開かれると、その出品物からいろいろな遺跡を知り、実査する日が多くなり、中学を卒業すると親に無理を言って、あこがれの京都帝大で浜田青陵博士の許で学習するようになり、家庭の事情で三年後帰郷すると、間もなく東京の森本六爾氏に知られ、当時新しく発見した西志賀貝塚を発掘調査した結果を、東京考古学会の「考古学」に発表して、同人に推薦された(1)。
吉田の考古学のはじまりを知ることのできる、数少ない文章のひとつである。『吉田富夫コレクション(2)』でも引用した。家族、学校、展覧会、大学と、世界が拡大してゆくようすがわかる。事後的に吉田が、そう整理したものであってもよい。説得的である。就中、1927年5月、松坂屋で開催された「愛知県史蹟名勝天然紀念物展覧会」のくだりは、ミュージアム・スタディーズの観点からたいへん興味深い。
いまは、多様なテーマの展覧会が、全国各地で日常的におこなわれている。しかし当時はそうでなく、好むテーマの展覧会に観客が接することは困難だったに違いない。展覧会が、いつどこで開催されるか。つまり、観客の年齢や観客の居住地から会場へのアクセスといった具体的な条件、制約が、観客の人生に正負作用したであろう。結果論とは言え、多感な15歳の時に、自分の住む町で、吉田がこの展覧会に出遭ったのは奇蹟と言うよりほかはない。
卑近で想い起こされるのは、「目で見る名古屋の文化史展」である。1969年10月1日から26日にかけて、名古屋城天守閣を会場にして開催された。主催は、名古屋市教育委員会、名古屋市、名古屋城振興協会、中日新聞、名古屋タイムズ社、愛知県博物館協会。縄文時代から明治までの文物が多数出品された。同展の解説書『目で見る名古屋の文化史展(3)』に稿を寄せる吉田富夫、佐々木隆美、豊場重春、岡本柳英、市橋鐸、林董一、磯谷勇、坪井忠彦、舟橋寛治らのキュレーションによるものであったと思われる。少なくとも考古資料は、吉田のそれであったことは間違いない。
展覧会の光景は憶えていない。吉田が体験したような地理的拡張は、すでに図書などで果たしていたから、展覧会の私に及ぼすところではなかったように思う。「実物を見た」ということに尽きるだろう。その10年と半年後、展示された考古資料の多くを手にしておこなう仕事に就くとは、誰が想像しただろう。
吉田富夫にとっての「愛知県史蹟名勝天然紀念物展覧会」が、私にとっては「目で見る名古屋の文化史展」であった。
注