前回、遺跡範囲が拡大すると推定した根拠を、以下に記す。
作業には、図を2点使用した。まず、「都市計画基本図(1)」は、東半分に昭和48-52年の図、西半分に昭和44-47年の図を用いた。異なる時期の図を使用したのは、東半分は図が精緻であること、西半分は守山高校設置以前の状況がわかるためである。明らかに「畑」であることがわかる部分のみを、橙色で塗りつぶした。等高線を赤色、水路を水色、道をピンク色でなぞった。
野田美幸「中志段味の地名調べ(2)」は、いわゆる「土地宝典」を原図にしているが、書誌情報が現在不明である。守山高校の記載があるため、1973年以後と思われる。水路を水色、道をピンク色、字界を橙色でなぞった。黒い太い線は、図本来のもので水路である。
(1)字東海道が東垣内を改めた名であることは周知の事実だが、「東の集落」という直訳に大過なければ、これは西方から名づけられたことになる。東海道の西には字天白、字宮浦(西半)、字元屋敷の集落、いわゆる天白・元屋敷遺跡があり、ここから見た「東の集落」として矛盾はない。
(2)字東海道の北西端に「びぎゃあてん」と呼ぶ場所がある。野田は、これに「弁財天」の字をあてている。また、びぎゃあてんに南接する場所は「ちゃばた」と呼ばれ、「茶畑」の字があてられている。
(3)「都市計画基本図」には、びぎゃあてんとちゃばたの一部に、地目が畑の区画がある。字東海道ではここだけであり、かつて微高地のあったことをうかがわせている。茶畑の表記が正しければ、微高地であったことの傍証となる。
(4)標高29mの等高線は、びぎゃあてんの場所で、不規則な形をして入り組んでいる。これは、南側から土が削り取られたようすを示すものであり、このこともまた、この一帯がもとは微高地だったことを暗示している。
(5)びぎゃあてんの西方には、字天白のほか「うじがみやぶ(氏神薮)」「てんのうばた(天王畑)」など、びぎゃあてん(弁財天)も含めて、精神文化にかかわる名が複数見える。また、字元屋敷は、ストレートに住宅の存在をあらわし、「ごうはた(郷畑)」「ごうた(郷田)」も同然である。しかし、びぎゃあてんの東方、字寺林の段丘崖までのあいだに見られるのは、田、溝、池など、生産にかかわる物質文化の名称ばかりであった。これらのことから、びぎゃあてん以西に集落があり、びぎゃあてん付近がその東限だったことを示す。これは、(1)で見た東海道の名の理由にも通じてもいる。
(つづく)
注- 「名古屋市都市計画情報提供サービス」(新ウィンドウまたはタブで開く)↑
- 野田美幸「中志段味の地名調べ」『私たちの博物館 志段味の自然と歴史を訪ねて』第31号、志段味の自然と歴史に親しむ会世話人会、1992年6月10日、9-11・14頁。(新ウィンドウまたはタブで開く)↑