昨日、中日新聞が最初に報道した天白・元屋敷遺跡破壊事件は、公社の問題に焦点化されているが、その根源は、40年以上続く名古屋市教育委員会の文化財行政の構造的欠陥にある。
文化財保護の断絶は、天白・元屋敷遺跡破壊事件が明証する。天白・元屋敷遺跡は、上志段味に西接する中志段味の遺跡で、1979年度の名古屋市教育委員会の遺跡分布調査で初めて確認され、同委員会による発掘調査が数度にわたっておこなわれてきた。区画整理事業に際しては、「埋立保存」する旨同委員会が強弁していた遺跡である。その遺跡が、2010年から翌年にかけて広範囲にわたり破壊された。「埋立保存」の強弁をも裏切る、地山から根こそぎの破壊に見舞われたのである。
事件は、2011年6月13日付の「野田農場ホームページ/農場だより」に「土器」の記事と写真が投稿されて公然となった。筆者は、これをコメント付きリツイートしたのち、同月15日に現地で遺物を実見し撮影する。そして、13日の野田農場のツイートにリプライするとともに、遺物の写真10点をFlickrに投稿した。以後、事業主体と名古屋市教育委員会とのあいだで折衝がはじまり、前代未聞の「遺物回収作業」ほかの調査にいたる。
天白・元屋敷遺跡は、『志段味古墳群』刊行にいたるまでの数年間、数多関係者が繁く過ぎったであろう地区にある。しかもそれは、上志段味の古墳群と歴史社会的に密接な関係が予想されもしてきた。さかのぼれば、名古屋市教育委員会史上初となった遺跡分布調査の最初のひとつが守山区だったのは、志段味・吉根地区の特定土地区画整理事業を想定していたからである。その象徴的な成果が、この遺跡―最初の名称は中志段味A遺跡―の発見であった。それを、根こそぎ破壊したのは、文化財保護の断絶、否定、破壊と言わずして何と言おう。畢竟、『志段味古墳群』は、天白・元屋敷遺跡破壊と一対だったのである(1)。
『歴史の里』のおためごかし、天白・元屋敷遺跡破壊事件という現実──。
注たとえば、『志段味古墳群』と天白・元屋敷遺跡破壊とが一対であったことが、断絶されたサンプルであることを「歴史の里」に強いるであろう。これが初めてではない。今日の見晴台遺跡の端緒たる1971年の史跡公園計画もまた、1972年の桜本町遺跡破壊、1974年の六本松遺跡破壊と一体であった。文化財保護の厚遇/冷遇という南北問題が、隣接して発生した共通も指摘しておこう。見晴台と「歴史の里」の意味は、冒頭に記した「調査され破壊され尽くした累々たる遺跡」、ひとこと「断絶」に還元されるのである(2)。
- 犬塚康博「経験と歴史の断絶―『志段味古墳群』の検討」『千葉大学人文社会科学研究』第28号、千葉大学大学院人文社会科学研究科、2014年3月30日、2232頁。↑
- 同論文、233-234頁。↑