▲ 『10・25闘争意見陳述』第1集、全国考古学闘争委員会連合、(1972年1月18日)、表紙(部分)。
日本考古学協会解体!10・25平博闘争45年を記念する。
注10月25日、私達が入場して5分余り後、受付にもどり係り員等と入場制限の不当性、入場の必然性等について話して合っている時に、機動隊の諸君が平安博物館に来て「暴力学生を一人も逃がすな」等と叫び、入口を固め、退去命令等警告も一切ないまま、すぐさま警棒を抜いておそいかかってきたのであります。当時、私達は手になにも「兇器」等は持たず、全く無抵抗であり、この様な機動隊諸君の暴行は予想しなかったので、その意志も用意もありませんでした。従って、その様な私達に対して突如暴行に出た行為は、はじめから私達を所謂「暴徒」と決めつけた上での行動であり、何も暴力をふるっていない、その意志もなかった私達に対し、いきなり警棒を抜いておそいかかり、仲間の女子学友の頭を割る等の暴行はまさに過剰警備に他ならず、私達の入場の必然性と相まって、この過剰警備によるところの私達の逮捕は極めて不当であると考えます。くり返しますが、この様な警備は当然協会側と警察側の周倒な事前の相互の連絡があってはじめて形づくられたものであり、事実、江坂委員等がかなり以前から警察庁と話し合っていたという事や、平安博物館々長角田文衛氏等が文化庁建造物課から京都五条署へ、警備を要請してもらいたい旨申し入れたり、又同じく角田氏が、前日、10月24日に五条署から私達を建造物不法侵入罪で検挙する為の口実として関係者以外立入禁止の立て看板を立てる様に指示を受けた事や、当日、受け付けに五条署から出向いて来た私服警官を座らせていた事を知るに至っては、明らかに警察の不当な介入であると考えます。この様に、極めて編見に満ち満ちており、春の総会で提起された問題を自らに帰って深刻に検討する事もなく、私達を「暴力学生」「破壊者」と決めつけ、一切私達を警備の対象としてしかとらえられない協会は極めて不当であると考えます(1)。
- 岡本俊朗[意見陳述]『10・25闘争意見陳述』第1集、全国考古学闘争委員会連合、(1972年1月18日)、23-24頁。↑