▲ 『日刊あした』No.1615(1面・部分、PDFファイル on click)
29年前のきょう、「名古屋の埋蔵文化財保護行政を考える学習交流の集い」を告知する『日刊あした』No.1615が発刊された。『日刊あした』は、名古屋市職員労働組合教育委員会事務局支部機関紙。裏面に「名古屋の埋蔵文化財保護行政を考える学習交流の集いへの呼びかけ」(下記)を掲載。この号の制作・編集は、29年前のわたくし。
名古屋の埋蔵文化財保護行政を考える学習交流の集いへの呼びかけ
残暑もようやく峠を越して、日増しに秋の気配深まる頃となりました。皆様には益々ご健勝のことと存じます。
さて、考古学や古代史が専門家研究者にとどまらず多くの人々の関心を集めるようになって久しく、新聞紙上でも全国各地の発掘調査や、また発掘調査での出土遺物の報道が目にとまる機会も多くなっています。名古屋では、一九七〇年、名古屋市教育委員会に文化財保護の担当職員が配属されるのを最初に、一九七九年の名古屋市見晴台考古資料館の設置を通じて、文化財保護行政の一つである埋蔵文化財の発掘調査の体制整備が進められてきました。しかし、開発は年毎に雪ダルマ式に増加の一途を辿り、体制整備はこれに追いつかないまま今日に至っています。
こうした中で、現在教育委員会では、『財団法人埋蔵文化財調査センター』という新機構設置の動きが急になっています。これは、名古屋で唯一の自然と文化財の宝庫─守山区志段味地区を住宅地として開発する日本最大規模の「特定土地区画整理事業」を目前にして、この地区の遺跡の発掘調査を短期日に進めることを主なきっかけとして考えられているものです。その名の示す通り、これまで名古屋市が直接に責任を負って実施してきた埋蔵文化財の発掘調査を、財団法人という外郭団体を作り、そこに実施させるというものです。
ところで現在、各地の都道府県・市では、この財団法人形式の埋蔵文化財調査センターが設立され、発掘調査を行なうケースが主流となっています。ところが、設立の際には必ず各界から問題点が指摘され、しかし何一つ解決されず問題を山積みにしたまま見切り発車されているのが実情です。例えば、地域の歴史や郷土の歴史に関心を持たれる市民からは、「どこでどういう遺跡の発掘調査が行なわれているのか全く知らされない」「発掘調査ばかりして、その成果が仲々市民に還元されない」「自分の住むまちの歴史を知りたいが、何がどこにあるのかが判るようになっていない」という声があります。また研究者・学界からは「開発に合わせた、時間と予算で行なわれる調査であるために、学術的に充分な調査ができない」との批判があります。更に、発掘調査の現場で働く職員からは、「不安定な条件の下で働いているため、休養も充分にとれず、精確さと正確さが求められる仕事を全うできない」「次から次へと現場に追われるため、出土遺物の整理も評価もできず、掘った遺跡の所在する地域の人々に調査の成果を伝えられないし、歴皮の学び合いができない」との嘆息が聞かれます。そして何よりも、様々な立場の多くの人々から、これは文化財保護のためのものではなく文化財を破壊するだめのものであるのではないかとの強い疑念が出されています。
そして、こうした問題の幾つかは、名古屋でも既に現れ始めています。例えば見晴台考古資料館の収蔵庫には過去二十年近い間に掘り出された遺物が充分な整理もなされずに山積みにされ、ほんの僅かのそれもいつも同じ遺物が展覧会に出されるといったことが繰り返されています。また、保存を前提にして、市民の歴史学習や研究に供されている遺跡は、南区の見晴台遺跡のみで、これ以外の殆どの遺跡は開発の前に丸裸のままです。そしてそれらの遺跡にいったん開発が計画されると「発掘調査」がなされ、それが済めば跡形もなく破壊し尽くされています。後に残るのは、整理されない出土遺物と記録の山となっています。
では、現在考えられている『財団法人埋蔵文化財調査センター』は、この問題を解決することができるのでしょうか。少なくとも埋蔵文化財調査センターはもともと国の方針として、「発掘機能」と「収蔵機能」のみが期待されて登場したものでした。言い替えれば、開発に邪魔な遺跡を早く掘れるだけ掘って、出土したものを倉庫に積み上げて行くというのがその役割です。そして、各地の埋蔵文化財調査センターはそのことを実際に証明しています。今ここに、私たちもまた、多くの疑念を抱かざるを得ません。
私たちは、このような名古屋の埋蔵文化財保護行政の現状を、多くの人々と見据え、共にあるべき姿を求めていきたいと願い、「名古屋の埋蔵文化財保護行政を考える学習交流の集い」を呼びかけたいと考えます。
どうかこの企画の趣旨をご理解いただき、多くの方々のご賛同がいただけお集まり下さいますことを心より念じ、ご案丙とさせていただきます。
※詳細は、別紙開催要項をご参照下さい。
一九八五年十月
名古屋市職員労働組合教育委員会事務局支部