名古屋市博物館は1968年計画、1977年開館、名古屋市見晴台考古資料館は1971年計画、1979年開館である。これ以前、「大都市」名古屋に歴史系博物館はなかった。
「一九二〇年代後半、名古屋市は「大正天皇即位記念」「市民の精神統一」を掲げて史伝参考品陳列館設置を計画し、募金活動も進めたが実現していない(1)」。「一九三〇年頃、名古屋商工会議所による名古屋博物館計画や、名古屋郷土会による郷土博物館計画が登場する(2)」が、それ以上のものとはならなかった。
敗戦後の1950年4月、「塚本名古屋市長と徳川義知黎明会々長との間で文庫の購入契約結ばれ(3)」て開設された蓬左文庫は、博物館ではなく図書館であった。1930年に宮内省から下賜された離宮すなわち名古屋城は、翌年から公開され、国宝(のちに重要文化財)を擁し、戦後はそれ自体が特別史跡、名勝となるが、これを歴史系博物館とい言うには未分化であった。戦後、復元天守閣で歴史の展示を催したり、焼失した天守閣の跡地から出土した考古資料を展示するなど、歴史系博物館の様相を呈するも、基本的性格は古美術館だったからである。このように名古屋市は、1970年代後半まで歴史系博物館を自ら実現できずにいた。
そうした博物館以前、資料館以前、名古屋市教育館で見晴台遺跡の出土遺物が、小規模ながら常設で展示されていた。2階の暗いロビーの壁際に設えられた展示ケース(4)に、土器、石器などが列んでいた。いつからおこなわれていたのかは知らないが、博物館、資料館まだなき頃の、名古屋市における歴史および考古プロパーの展示、その嚆矢であった。それは、教育館の利用者の中心すなわち学校の教員を対象にした普及、宣伝だったのかもしれない。私たちが、学校から引率されて見学したことはなかったが。
この展示には、吉田富夫や三渡俊一郎をはじめ名古屋考古学会の人たちがかかわったのであろう。1964年に発掘調査が始まった見晴台遺跡をめぐる「ひと」「もの」「こと」は、ひとり名古屋市見晴台考古資料館に継続しただけでなく、同市における歴史系博物館的実践一般、その原像の一端を担っていたのではないか。そう思わずにはいられないのである(5)。
注- 犬塚康博「一九四五年以前名古屋の博物館発達史ノート」『関西大学博物館紀要』第10号、関西大学博物館、2004年3月31日、286頁。↑
- 同論文、285頁。↑
- 「蓬左文庫略年表」名古屋市博物館編『名古屋市移管三十周年記念 蓬左文庫名品展』、名古屋市博物館、1980年12月1日、74頁。↑
- その後この展示ケースは、仮設考古資料館、考古資料館の地下で、それと意識することなく見ていたように思い起こすが、記憶違いかもしれない。↑
- このほかに、熱田図書館がよく展示を開催していた。初代館長・服部鉦太郎の尽くすところ大きく、館報『ライブラリーあつた』でそのようすを知ることができる。徳川美術館でも歴史の展覧会を開催していた。いずれも常設ではなかった。常設としては、1970年10月31日に開館した荒木集成館が先駆である。↑