蛸畑遺跡〔6〕

蛸畑貝塚(緑区)
「尾張志」などに、鳴海宿の東北三十丁(約三・三キロ)にある蛸(たこ)畑の地は、海岸から遠くへだつのに海の貝殻を出すことを記すのは、貝塚の存在を暗示するようである。「尾張名所図会」には「章魚(たこ)畠の古覧」と題して、大だこが芋畑に上がり、芋を食べる図まで入れて、話題の興味を一層引き立てている。
それはさておき、この地、その記事に迷わされていっこうにわからなかったが、蛸畑の地名は、実は鳴海の南東、細根の手前にあり、相原から扇川を渡って、細根へ通ずる道路が、低地の水田から、台地の畑へかかる西側の台地縁に、ハマグリ・カキ・アサリ・シジミを出すことを発見したから、ここを指すのであろう。学史的な遺跡だから、大切にしたい(1)

「学史的な遺跡だから、大切にしたい」。ここに自動車道が通過することを吉田は知っていて、このように書いたのだろうか。検見塚にそうしたように。しかし、吉田の希望に反して、蛸畑遺跡は滅失した(2)

ところで、「名古屋における発見と調査のあゆみ」と副題して開催した1988年の名古屋市博物館特別展「考古学の風景」は、蛸畑遺跡をとりあげなかった。遅きに失したが、26年後のこの「考古学の風景」で明記する。

  1. 吉田富夫「遺跡ここかしこ/蛸畑貝塚(緑区)」『中日新聞』第10662号、1972年1月31日、7面。
  2. 名古屋市教育委員会『名古屋市遺跡地図(緑区)』、1979年3月。
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