『緑区の考古遺跡(1)』によると、次の記事が、蛸畑遺跡に関する考古学的なそれの最初という。
蛸畑
緑区鳴海町蛸畑
「尾張志」などの古文献に、この地貝殻を出すよしを記しているが、現在具体的な位置はあまり明確ではない。したがって、それが確実に貝塚であるかどうか、その性質は今日学問的に解明できないが、発見史的に鳴海としては古く、しかも唯一の文献的事実としてよく知られているものである。将来その位置もわかり、性質も明らかになる日が来るならば、きわめておもしろかろう。(吉田(2))
1963年4月1日、愛知郡鳴海町が名古屋市に編入されて緑区となったことを受けて、『名古屋史蹟名勝紀要』は「緑区」の事蹟を増補した。その中に「蛸畑」が加えられた。これ以前における近代の考古学的言及の存否は、現時点で不明である。たとえば、鳴海町町長で雷貝塚を調査した野村三郎は、知り及んでいただろうか。
注
僕が17歳。中新田、細根の各地を遺跡探しで、よく踏査していました。
中新田では細石器らしき散布地、小型円墳。
その台地下の水田用水路工事で、大きい杭のような柱(経80センチほど)十数本が並び、その左側で平安と鎌倉初頭の陶片、蜆、ハマグリ、ハイガイの混貝土があり、僕的には「なんだ~ 縄文かと思って掘ったが、中世か・・・」ガッカリ。
数ヵ月後、吉田先生宅にて、この鳴海奥の遺跡群のお話をしました。
18歳、新発見の古窯や野並谷奥の古墳?を、案内し、息を「ヒ~~ ピ~~ 」吐きながらもう限界。
奥鳴海の谷が見える峠まで、励ましながらご案内。
お袋が作ってくれた「巻き卵焼き、おにぎり」を二人で食べながら「向こうに見える台地に中新田。その左が細根、間の道の左の田んぼが、蛸畑の中世港らしい遺跡です」
「あ! 富士山が見える! 飯尾君 富士山が見える~~~ 富士見の地名は、本当に! 証明できる!!」子供のように、はしゃいで、こんな先生初めて見ました。
数日後、僕のスバルサンバーで、鳴海奥の遺跡群を案内しました。
その経緯、論議が先生と僕の間にありました。また書きます。
ありがとうございます。
「蛸畑遺跡」の投稿は、現在〔7〕まで投稿済みで、公開予約中です。次回の記事で、吉田先生、紅村さん、飯尾さん、お三方による踏査のようすが掲載された、吉田富夫「緑区鳴海町蛸畑遺跡の位置」『名古屋考古学会会報』11号、名古屋考古学会、1969年6月1日、8頁、に触れます。
ふと惟うに、当時なぜ「鳴海」だったのか。「緑区」だったのか。これは、現下の文化財行政が、なぜ「志段味」なのか、「守山区」なのかの問いと、社会学的にパラレルなのではないか。
あっ!ここまで書いて、ようやく気づきました。岡本さんたちが携わった「徳重西部」(名古屋市教育委員会社会教育部文化課編『徳重西部土地区画整理事業予定地内所在埋蔵文化財発掘調査報告―名古屋市緑区鳴海町』(名古屋市文化財調査報告6)、名古屋市教育委員会、1976年5月)の意味に。
「大きな蛸がいて、目の前の鳴海の海で、貝を採り・・・ たまった貝が塚になったと巡幸記にある」
「飯尾君、いい遺跡見つけてくれたな~ きっと、ここが蛸畑貝塚だよ! 間違いない!!」と、吉田先生が、大変喜んでいました。
「先生、ここは中世の陶器積み出しの港の跡ですよ!」
「その証拠として、貝は少なく、灌水・灌水性が混じり、時期的にも中世。とても貝塚と呼べるほどのものではないですよ!」
「飯尾君。江戸期の人は、貝のここで出るのが不思議で、蛸畑と呼んだんだよ!」
「この程度の貝の出る畑は、未だ天白川の中流でも有りますよ! 野並から3キロ上流でも10箇所くらい・・・」
「蛸畑は、やっぱりココだよ! 間違いないない!
・・・ ここが地名になった! ・・・」
普段は、よく「なるほど・・・」と、同調してくれる先生が・・・
この件では、なかなか、頑固で譲らない吉田先生をみたのは珍しかった。
それから、名古屋市教委課の横井さん。鳴海町の教育委員会の職員。吉田先生の3名を鳴海駅で落ち合い車で僕が案内。
先生が「ここが蛸畑ですよ!」自慢げにせつめいされました。
世の帰り「鳴海の料亭で8名ほどの鳴海職員、教員か集められ宴会が始まりました」
僕のようなものでも「若先生・・・」と呼んでいただき、大人の世界をみました。
この中で「飯尾先生の上ノ山遺跡、発見は無視しない」の調査実費や鳴海の遺跡探しに・・・便宜を図ります。発言を受けました。
「蛸畑遺跡の保存はしない! 用水路が必要。なかった旨・・・」の鳴海町のお願いがありました。
また、続編・・・希望なら書き込みます。
吉田先生が譲らなかった理由がわかるような気がします。7回目の予約記事で言及したことと関係しているのではないかと思うのです。
もちろん希望します。よろしくお願いいたします。