▲ 「蛸畑遺跡 1970年4月5日 〔1/4〕」と同じ方向から見る。
2014年7月2日、蛸畑遺跡にゆく。
名二環をゆくとき、この上の高架を通過しているが、地上でこの遺跡をたずねたのは44年ぶり。かつては名鉄名古屋本線有松駅から徒歩で、この日は国道302号を自動車で。
Google マップ、ストリートビュー、名古屋市都市計画基本図などインターネット上の情報でだいたい把握していたとおりに、現地は大きく様変わりしていた。あの民家2軒4棟はなく、名二環の敷地になっていた。高架のせいで空間の感覚が狂うが、歩いてみると微妙な地形の変化に体が反応する。あの2軒は、北にくだる緩やかな坂の途中にあったのだ。
ところで、かつての2軒のあいだを通っていた道路、つまり有松と相原郷をむすぶ道路の交通量の多さに驚く。片側に幅1mほどの歩道があるばかりで、そこを人や高校生の自転車が往くから、自動車は接触しないよう減速したり避けたりする。急速に都市化した地域の、都市化以前のままの道路にありがちな光景であった。
「右 白土/左 相原」の刻字のある石仏があったが、もとあった場所からは多少移動しているのだろう。「相原から川を渡つて細根へ通ずる道路(1)」と吉田富夫が書いた道路の細根側で、行く先を指示する道標である。旧道の様相を呈する両側は、比較的古い住宅街で、東側の小谷へくだると、地形、林相、畑など昔のままのようだった。もちろん、44年前の中学生は遺跡のことしか眼中になく、周囲への注意はなかったが・・・。そのかわり今回は、遺物の散布が見られるかなど、まったく気にしなかった。
注- 吉田富夫「蛸畑貝塚」尾崎久弥・佐々木隆美・城戸久・市橋鐸・坪井忠彦・伊藤亮三・吉田富夫・芥子川律治・藤井制心・高木栄一郎・岡本柳英・小島広次・林董一・水野時二・桜井龍一『名古屋の史跡と文化財』、名古屋市教育委員会、1970年3月1日、19頁。↑