『伊勢湾地域古代世界の形成(1)』には、3編の解説がある。それぞれの執筆意図を超えて、そこに表象されいるものは何か。同書の編集を実質的に担った小林義孝さんの解説タイトル「「市民考古学」の達成(2)」の、「市民」と「考古学」をキイワードにして考えてみた。
まず、中里信之さんの「名古屋の古墳時代研究と「尾張の大型古墳」(3)」は、「考古学」の単純である。そして、「市民」の不在が、同論文の思想性の欠如、論理の倒錯に影を落としているように見えた。たとえば伊藤さんは、岡本孝之の所論(1974年)に接し、自身の研究で「闘争」を鮮明にしていった旨陳べているが(4)、「尾張の大型古墳」(1972年)においてもこの質は懐胎されていたと見るべきで、そうした弁証法が中里さんの解説には失われている。また、「尾張の大型古墳」が都出比呂志の「前方後円墳体制」に通じているのではなく、「前方後円墳体制」が「尾張の大型古墳」に通じているのである。両者は、広義のマルクス主義歴史学のうちにあって親縁関係を有するが、先後関係からすればこのように言うべきであった。伊藤さんの言う「闘争」に、「前方後円墳体制」が通じているか否かの問題が等閑視されていることは、言うまでもない。
惟うに、中里さんの主眼は、物質的には伊藤さんにありながら、精神的には同業の職業考古学研究者にあったのであろう。諸説の、批評なき羅列、八方美人かつ総花的整理であり、自己の営業としては正しい。ちなみに、文末近くで拙著にも触れるが、校正の途上で文献注とともに挿入されたもので、当初の「思いつくままに」には含まれていなかった。このことも、同業者向けの印象を支えている。ことほど左様に、考古学をなりわいとしていない私なのである。「見直し(5)」ももとより存しなかったのだから、正しく忘却せよかし。(濠状遺構にまで動員された)ピエール・ノラも不要である 😀
小林さんの「市民」「考古学」と、私の「「大衆の考古学」を記念する(6)」のキイワード「大衆」「考古学」は似かよっている。
ところで拙稿は、入稿時「「尾張の大型古墳」のころ」というタイトルであった。しかし、初校が出た際、中里さんの解説タイトルに「尾張の大型古墳」を含むことがわかり、この重複は私の編集戦略一般に照らすと禁忌すべき事象であったため、拙稿のタイトルを現行のものに変更した経緯を有する。もとより同書の編集方針は、著者の伊藤さんと編者たる小林さんのうちにのみ存したため――唯一私が提案したのは「中里さんに解説を書いてもらったら?」だったが、これが採用されたことを知るのも上記初校のときであった――、それを推量しながら処していったというのが実際であり、実にスリリングな体験であった。
閑話休題。小林さんの「市民」は、自身の投影であろう。この3月に定年退職し、爾後はNPO法人摂河泉地域文化研究所で、これまで以上に市民活動を展開されんとする矜持が感じられる。実に未来的である。私の「大衆」も、私自身の投影として見れば、博物館史研究をおこなってきた経験の延長と言える。この構制を手がかりに、考古学批評すなわち考古学の理論と実践の弁証法を進めるという意味で、やはり未来的となる。中里さんの、職業考古学コロニー向け営業も、未来的であった。三者は、伊藤さんを介して、自身の未来を象徴的に表象していたのである。
「それぞれは、それぞれの未来で、「闘争」せよ」と、いたずらっぽく笑いながら告げる伊藤さんが見える。
注