43年前のいまごろである。清洲町(当時)朝日にある大遺跡の一帯に重機が入り、大規模破壊を開始したのは。
ところで、朝日遺跡群(1982年以降は朝日遺跡)破壊事件と保存運動に言及した所論に接した記憶がない。私が、忘れているだけなのだろうか。愛知県の考古学の状況を批判した渡辺英樹の論文「愛知県下の考古学研究者―戦後の潮流― 」(1)」も、数行触れるだけであった。あるのは、行政権力による万歳総括だけである。この不健全な社会。38度線以北の同工異曲。
そういう事情もあったからだろう。この問題を論じようとしていた岡本俊朗のメモを、よく憶えている。できあがった遺稿追悼集では、コメントでひとことするにとどまったが(写真(2))、もとのメモはもう少し具体的なものであった。いまただちに、岡本の書いた原本にアクセスできないため、ここではコメントの草稿を掲げる。
当時の岡本の課題意識を、そのまま再現して展開することはすでにかなわぬが、1971年の朝日遺跡群破壊事件と保存運動の意味は問われてしかるべきである。
注彼の一時期のノートには、「学問論」に関するメモがいたる所に残されている。これを詳細にたどると、当時愛知県下で問題化していた、朝日遺跡群保存運動に対する批判として書かれようとしてたものである事が判る。「遺跡保存運動の論理」と題されたこの草稿は、
Ⅰ.環2と土地改良事業と朝日遺跡群
Ⅱ.71年度中の朝日遺跡群の保存運動(朝日遺跡群保存会、東海の文化財を守る会)
Ⅲ.かつての保存運動と論理―新しい萌芽、賀茂の場合
Ⅳ.保存運動の論理と〈学〉の社会への権力志向(社会的存在価値の確立)
という構成で、構想されており、「学問論」はこの前提―プロローグないしはエピローグ?として用意されていたようである。
現在、手許に残されているメモは、いずれも断片的なものである。しかしそこに展開されている内容は、彼の〈学〉に対する考え方が判るものであり、捨象し難いため、その中で一番文章化されている稿を軸に据えて、他の稿で展開されている内容・表現等を挿入する等して、編集した。原則的に、全文彼の文章で構成し、若干の接続詞等補った。