愛知の管理教育と朝日遺跡群破壊

仲谷義明「序」愛知県教育委員会編『朝日貝塚予備調査報告』、愛知県教育委員会、1970年3月、(序の頁)、同「序」(奥付なし)(『貝殻山貝塚調査報告』、愛知県教育委員会、1972年)、(序の頁)。
▲ 仲谷義明「序」愛知県教育委員会編『朝日貝塚予備調査報告』、愛知県教育委員会、1970年3月、(序の頁)、同「序」(奥付なし)(『貝殻山貝塚調査報告』、愛知県教育委員会、1972年)、(序の頁)。

過日Twitterで、知己 @polieco_arche とやりとりをしていて想起したことを少々。

私が高校に通っていた頃は、愛知の管理教育(1)全盛だった。幸運にも私は県立高校でなかったから、直接の被害は蒙らなかったし、三校禁はあったものの、お構いなしに交流していた。管理教育のシンボルは教育長の仲谷義明(2)。まだ潔癖だった高校生には、悪魔のように見えた。やがて県知事になり、退職後に自殺。五輪招致失敗を苦にしてのことと言われ、いまなお都市伝説の様相を呈している。

仲谷が教育長だったときに起きたのが、1971年の朝日遺跡群破壊事件である。報告書の「序(3)」に、その名が見える。通常、知事本人が書くことは稀で、下級役人が起案し決済をとる。当時の県教委の文化財担当は柴垣勇夫であった。

これより遡って、私が中学生のとき、学校の野外活動で遠方にでかけるのに際して、その付近の遺跡の教示を乞いに、級友と二人で愛知県教育委員会の所轄課に行ったことがある。学校から歩いて5分もしない場所で、通学路でもあったから、教師に相談もせず気安く思い立って事前に電話をし、しかし緊張しながら出かけた。西庁舎の上の方の階へゆき、主旨を伝え話を聞き分布地図のコピーをもらった。私たちに応対した無愛想な人は、「掘るんじゃないぞ」だったか「壊すんじゃないぞ」と付け加えた。中学生にとって、その否定形は威圧的であった。私は、何か悪いことをしているような気分に苛まれた。

以下は後知恵だが、考えてみれば、中学生ができる破壊など知れたもので、じきに起こった朝日遺跡群の破壊の比ではない。分野は異なるが、大阪市立自然史博物館の日浦勇が、自然と人間を「物質的なかかわり」(資源としての自然、環境としての自然)と「精神的なかかわり」(モチーフとしての自然、風土としての自然)とにおいてとらえ、昆虫採集犯罪論に慎重だったのとは雲泥の差がある。(4)

柴垣は、当時二十歳代後半で、文化財保護という権力行政と教育の区別ができなかったのだろうか。そしてその人が、やがて愛知県陶磁資料館に籍を置くのだから、世の中は摩訶不思議である。とは言っても、同館は教育委員会ではなく知事部局所管だから不思議でないのかもしれないが、博物館人、廣瀬鎮だったらあり得ない「掘るんじゃないぞ」「壊すんじゃないぞ」の思想の持ち主が、博物館していたのである。仲谷の管理教育時代の文化財行政は、柴垣が執り行っていた。柴垣に限らず、県の教育行政全体の文化が仲谷的だったのだろうが、高校生の私には仲谷すなわち柴垣であった。

  1. 管理教育 – Wikipedia」。
  2. 仲谷義明 – Wikipedia」。
  3. 仲谷義明「序」愛知県教育委員会編『朝日貝塚予備調査報告』、愛知県教育委員会、1970年3月、(序の頁)、同「序」(奥付なし)(『貝殻山貝塚調査報告』、愛知県教育委員会、1972年)、(序の頁)。
  4. 日浦勇「われわれにとって「蝶」とは何か―放飼問題を考えるために(I)―」日浦勇著、日高敏隆・堀田隆・千地万造・柴田保彦・瀬戸剛・宮武頼夫・那須孝悌編『日浦勇著作集』、日浦さんの遺稿出版する会、1984年10月10日、296-298頁。初出は『やどりが』80・90号、1977年、35-37頁。
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