続・「名古屋城石垣 古墳の石転用か」異論
▲ 「㉞刻印石」(部分) 先の正編で、次のように書いた。 さらに学芸員の言う、「今後、古墳周辺で刻印石が見つかれば、名古屋城への転用を証明できる」は倒錯である。東谷山で刻印石が見つかっても、名古屋城への転用は直接に証明す…
続きを読む →▲ 「㉞刻印石」(部分) 先の正編で、次のように書いた。 さらに学芸員の言う、「今後、古墳周辺で刻印石が見つかれば、名古屋城への転用を証明できる」は倒錯である。東谷山で刻印石が見つかっても、名古屋城への転用は直接に証明す…
続きを読む →▲ 仲谷義明「序」愛知県教育委員会編『朝日貝塚予備調査報告』、愛知県教育委員会、1970年3月、(序の頁)、同「序」(奥付なし)(『貝殻山貝塚調査報告』、愛知県教育委員会、1972年)、(序の頁)。 過日Twitterで…
続きを読む →▲ 『中日新聞』、1970年3月19日。 ▲ 『朝日新聞』、市内版、1971年8月4日。 婦人学級から自主グループが誕生して、講義や体験学習を継続するとは、なんと理想的、模範的な社会教育実践であることか。 考古学と社会教…
続きを読む →吉田富夫は書いた。 私の収集は、小学校5~6年のころ、コインを親からもらうのを楽しみとすることにはじまる。そして中学に進んで、歴史の時間に、尾張国分寺の跡が矢合にあって、当時の古瓦が出ることを聞いて、実地に臨むと、破片が…
続きを読む →名古屋市博物館は1968年計画、1977年開館、名古屋市見晴台考古資料館は1971年計画、1979年開館である。これ以前、「大都市」名古屋に歴史系博物館はなかった。 「一九二〇年代後半、名古屋市は「大正天皇即位記念」「市…
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