2014年10月12日

『日刊あした』No.1615発刊29年を記念する

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▲ 『日刊あした』No.1615(1面・部分、PDFファイル on click)

29年前のきょう、「名古屋の埋蔵文化財保護行政を考える学習交流の集い」を告知する『日刊あした』No.1615が発刊された。『日刊あした』は、名古屋市職員労働組合教育委員会事務局支部機関紙。裏面に「名古屋の埋蔵文化財保護行政を考える学習交流の集いへの呼びかけ」(下記)を掲載。この号の制作・編集は、29年前のわたくし。

名古屋の埋蔵文化財保護行政を考える学習交流の集いへの呼びかけ
残暑もようやく峠を越して、日増しに秋の気配深まる頃となりました。皆様には益々ご健勝のことと存じます。 More

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2014年5月24日

再び、池田陸介先生の卒寿を祝す

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櫻井隆司先生と談笑する池田陸介先生
▲ 櫻井隆司先生と談笑する池田陸介先生

きょう、1年ぶりに、池田陸介先生とお目にかかりました。

1971年、第9次見晴台遺跡発掘調査以来、43年にわたるご交誼に心から御礼申し上げます。

あらためて、先生の卒寿をお祝い申し上げ、さらなるご長寿を祈念します。

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2014年4月5日

蛸畑遺跡

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名古屋市緑区の蛸畑遺跡を踏査したのは、44年前のきょう。

吉田富夫「緑区鳴海町蛸畑遺跡の位置(1)」に刺激されてのことだったように思う。くわえて、東枇杷島、名西橋と、西区の庄内川沿いを生活圏としてきた10代の私にとり緑区は別世界だったが、1969年夏の第8次見晴台遺跡発掘調査参加を経て、同様に別世界の南区、名鉄笠寺駅まで行動範囲が広がっていたことが、緑区への延長を容易にしたと言える。

かくして名鉄名古屋本線の有松駅で降り、11時から15時頃にかけて歩いた。3箇所で貝殻の散布を見るが、農作業者への聴き取りなどから新しいものではないか、というのが当時の印象である。そのうち1箇所で、条痕のある土器片1点を採集。

ところで、撮影データのない一連の写真がある。蛸畑遺跡踏査時のものと記憶してきたが、今回、当時の都市計画図と比較して、そうであることがわかった。4棟の民家が写真と地図(赤色)とで対応する。現在、民家のある場所は、名古屋第二環状自動車道が通っている。

S48-S52 名古屋市都市計画基本図(一部改変)
▲ S48-S52 名古屋市都市計画基本図(一部改変)

蛸畑遺跡 1970年4月5日 〔2/4〕
▲ 蛸畑遺跡 1970年4月5日 〔2/4〕

  1. 吉田富夫「緑区鳴海町蛸畑遺跡の位置」『名古屋考古学会会報』11号、名古屋考古学会、1969年6月1日、8頁。
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2014年2月1日

池田陸介先生卒寿を祝う

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「10・20名古屋の埋蔵文化財保護行政を考える学習交流の集い」で発言中の池田陸介先生(立つ人)。1985年。
▲ 「10・20名古屋の埋蔵文化財保護行政を考える学習交流の集い」で発言中の池田陸介先生(立つ人)。1985年。

1924年(大正13年)2月1日のお生まれ。

はじめてお目にかかったのは、1971年の第9次見晴台遺跡発掘調査。10次か11次のときには、発掘調査現場のテントでガリ切りの裏技-蝋原紙の扱い方を教わる。その後、「ある考古学研究者批判をするために」早期退職されたのは刺激的であった。書くことは多い。追って本サイトにて。

一層のご健康とご活躍を。

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2014年1月4日

恭賀新禧 2014甲午年

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『岡本俊朗遺稿追悼集 見晴台のおっちゃん奮闘記-日本考古学の変革と実践的精神-』を、ご希望の方にお譲りします。

編集者のお宅に保管されていた在庫を、譲っていただきました。経年変化等による褪色や擦れが外部にありますが、読書にはまったく問題ありません。なくなり次第終了します。

  • 「レターパックプラス」のみでの発送とします。
  • 1冊につき送料510円をご負担ください。
  • 1冊1梱包とします。省力化のため、複数冊あわせての発送は原則的にいたしません。
  • 本サイトの「Contact」の「Message」欄に、「①送付先郵便番号・住所」、「②送付先氏名」、「③送付先電話番号」、「④メールアドレス」、「⑤部数」を明記してお申し込みください。折り返し、ご送金先をメールにてお知らせします。送金にかかる手数料をご負担ください。
  • ご入金を確認し次第、発送いたします。
  • カンパをいただけると幸いです。本サイトの運営に利用させていただきます。
  • お知らせいただいた個人情報は、発送に使用したのち廃棄します。
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2013年11月30日

吉田富夫、V・G・チャイルド、大参義一

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1971年11月21日に吉田富夫が急逝し、25日から新聞連載されたコラム「遺跡ここかしこ」を1冊に編集した『名古屋の遺跡百話(1)』が、吉田を追悼する唯一のまとまった書となった。同書の編輯と増補をおこなった大参義一は、「吉田富夫先生の先史文化研究(2)」を寄せて吉田の業績を解説、評価している。その約10年後、この文はリライトされて「吉田富夫先生の考古学(3)」になるが、このときV・G・チャイルドに関する記述が新規に加わった。

大参は冒頭近くでエピソードを披露する。

吉田先生の研究の業績について思いをめぐらす時、何時も私の頭に浮かぶのは、かのイギリスの考古学者V・ゴードン・チャイルドのことである。先生自身かって、チャイルドに傾倒している旨を私にもらされたことがあったが、この両先学の果たした学史的役割の中には共通する点が多いことを感ぜずにはいられない(4)

チャイルドの事蹟を概観したあと、次のように書く。

このように考古資料によって原始古代の文化の総合体系化をはかり、研究法を開発し、啓蒙史家としてもすぐれた働きをし、文化財の保護にも情熱をもやしたチャイルドの多面的な活躍は、研究対象の地域こそ異なっていたけれども、吉田先生が果たされた学者としての役割と通ずるものがあり、私の頭の中で葉両者がダブって浮かび上がってくるのである(5)

このあと吉田に関する記述の中心が展開され、文末近くになってふたたびチャイルドが登場する。

先生は自ら見晴台遺跡の全面的な発掘調査に意欲をもやして、健康のすぐれない晩年も、連日現場におもむいて発掘の指導にあたられた。あの温厚な人柄の中に、はげしい情熱が秘められていたわけである。チャイルドが、ファシズムにたいして、学問の立場からはげしい情熱をもやして反ばくをしたことが思いおこされる(6)

以上が、チャイルドに関説した部分である。このように見来たると大参は、吉田とチャイルドのなんらかの関係を論証しているわけではないことがわかる。吉田が反ファシズムだったことを説いてもいない。政治的言説を多くする吉田ではなかったが、たとえば「小学国語読本巻十二第三「古代の遺物」について(7)」は、吉田が反ファシズムの人ではなかったことを示している。

それは大参も、承知のことであっただろう。ならば私たちは、なぜ大参はチャイルドのことを加えたのか、と正しく問わなければならない。チャイルドは、吉田の何かのメタファーだったのではないか。「見えないことを見るように」と、大参が言っているように思えるのである。

  1. 吉田富夫・大参義一『名古屋の遺跡百話』(文化財叢書第61号)、名古屋市教育委員会、1973年11月30日、1-88頁。
  2. 大参義一「吉田富夫先生の先史文化研究」吉田富夫・大参義一、前掲書、68-72頁。
  3. 同「吉田富夫先生の考古学」名古屋市博物館編『吉田富夫コレクション』、名古屋市博物館、1982年4月29日、43-46頁。
  4. 同論文、43頁。
  5. 同論文、43頁。
  6. 同論文、46頁。
  7. 吉田富夫「小学国語読本巻十二第三「古代の遺物」について」『愛知教育』610、愛知県教育会、1938年10月1日、51-55頁。
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2013年11月21日

吉田富夫忌

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その日私は、名古屋考古学会の定期大会にゆき、最新刊の『古代人』の記事と吉田富夫の欠席に異変を感じた。しかし、それ以上に思うことは何もなかった。出席の人の多くがそうだっと思う。

さて、本会発足以来会長として発展のため御尽力いただきました吉田富夫氏に11月より会長をやめていただきました。まことに残念なことではありますが、同人会にて数次にわたり討論しての結果ですので、会員各位におしらせ致します。
その理由は「見晴台遺跡発掘団」の性格が同人会の問題となりました。すなわち名古屋市教育委員会社会教育課は名古屋考古学会へ見晴台遺跡の発掘を一度も依頼したことはなく、名古屋市文化財調査委員の吉田富夫氏へ団長を依嘱したと言明しており、吉田氏自身もまた10月の同人会でその通りであったと證言せられた。すなわち名古屋考古学会が見晴台遺跡の発掘には一度も参加したことはないという解釈であります。これにより、当会は吉田会長により無視されていたという事実がはっきりしました。かかる誤解は吉田氏が会長である限りづっとつづき、無用の混乱をまねきますので会長の地位をさっていただいたわけです(1)

その日、奥さまが帰宅されると、ご主人は亡くなっておられた。奥さまはどうしてよいかわからず、隣家に助けを求められた。隣人は、そのままにして連絡されるようすすめた。

(筆者はさる21日に死去した市文化財調査委員吉田富夫氏、本稿は同氏の絶筆である)(2)

11月25日から翌年3月20日にかけて、『中日新聞』市民版の題字下に「遺跡ここかしこ」が100回連載される。主なきまま。

昨年の11月21日、定期大会を名古屋市瑞穂図書館で盛会裡に終了したが、同日夕刻元吉田富夫会長が急逝されたことを翌日知らされ、思いもかけぬ悲しみであった。23日午後2時、自宅で告別式があり多数の会員、同人がお別れに集り、会も御仏前を供えた。
本号では故人と永い御交際のあった北村斌夫先生におねがいをして故人の面影を綴っていただいた。吉田先生の御冥福を祈る(3)

みんな、イントラ・フェストゥム(木村敏)だったのだ。

8年後には見晴台考古資料館を見られたのに。
6年後には博物館が見られたのに。

  1. 三渡俊一郎「事務局だより」『古代人』第21号、名古屋考古学会事務局、1971年11月20日、14頁。
  2. 吉田富夫「遺跡ここかしこ はじめに・・・」『中日新聞』、1971年11月25日。
  3. 三渡俊一郎「事務局だより」『古代人』第22号、名古屋考古学会事務局、1972年2月20日、27頁。
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