2017年6月19日

池田陸介先生ご逝去

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▲ 池田陸介先生の長寿と出版を祝う会(2016年6月11日)

2017年6月18日、池田陸介先生がお亡くなりになりました。享年九十四。
私事、1971年の第9次見晴台遺跡発掘調査以来、多くの場面でお付き合いくださいますとともにお力添えを賜り、心から御礼申しあげます。ありがとうございました。どうぞ安らかにお眠りください。

http://archaeologyscape.kustos.ac/index.php?s=池田陸介&Submit=Search

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2016年8月2日

俊朗忌

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1983年7月26日 第22次見晴台遺跡発掘調査で
▲ 1983年7月26日 第22次見晴台遺跡発掘調査で

岡本俊朗没後33年。

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2016年7月30日

〔ご案内〕安川満氏講演「岡山市金蔵山古墳の発掘調査から」

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▲ 岡山市金蔵山古墳平面図

次の催しがおこなわれます。どうぞご参加ください。

見晴台考古資料館友の会セミナ・志段味の自然と歴史に親しむ会8月例会

テーマ 「岡山市金蔵山古墳の発掘調査から」

講師 安川満氏(岡山市教育員会文化財課)

日時 8月16日(火)午後2時~4時

会場 名古屋市昭和生涯学習センター視聴覚室

要旨 金蔵山古墳は岡山市を流れる旭川の西、操山(みさおやま)丘陵の上に造られた前方後円墳です。4世紀末から5世紀初めに造られた古墳とされ、墳丘長はおよそ165mです。吉備の有名な造山古墳より古く、この時期では近畿を除く西日本では最大の規模の古墳とされています。保存に向けて、2014年から5ヶ年計画で古墳の概要をつかむための発掘調査が行われています。現在その中心となって調査にあたっているのが安川満氏で、中学、高校の時には見晴台遺跡の発掘調査に参加していました。今回、名古屋に帰省される機会にお話をしていただくことになりました。興味・関心のある方をぜひお誘いいただきご参加ください。なお、参加費無料ですが、若干の資料代のご協力をお願いします。

出典 https://www.facebook.com/events/336386296693470/

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2015年8月30日

30年めの8月、32年めの8月

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見晴台遺跡の赤松啓介氏 1985年8月4日
▲ 見晴台遺跡の赤松啓介氏 1985年8月4日

見晴台遺跡の赤松啓介氏 1985年8月4日
▲ 見晴台遺跡の赤松啓介氏 1985年8月4日

見晴台遺跡の赤松啓介氏 1985年8月4日
▲ 見晴台遺跡の赤松啓介氏 1985年8月4日

(承前)そして、赤松啓介氏がはじめて見晴台遺跡に立たれた8月から、30年である。

1985年8月3日(土)夕方、名古屋市千種区の王山会館(現在のルブラ王山)で、『岡本俊朗遺稿追悼集 見晴台のおっちゃん奮闘記―日本考古学の変革と実践的精神―』の「出版記念大パーティー」が開催された。大阪からの参加者の自動車に同乗して、神戸から赤松氏が駆けつけられた。翌4日(日)は、午前中に見晴台遺跡第24次発掘調査と考古資料館の見学、ならびに映画「遺跡を掘る」を鑑賞し、午後、八事霊園で墓参した。

それから30年めの8月、岡本さんが逝ってから32年めの8月が、過ぎる。

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2015年8月23日

『見晴台のおっちゃん奮闘記』刊行30年を記念する

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この8月は、『岡本俊朗遺稿追悼集 見晴台のおっちゃん奮闘記―日本考古学の変革と実践的精神―』刊行30年。

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2014年11月26日

「大衆の考古学」42年を記念する

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42年前のきょう、「大衆の考古学」が実践的かつ理論的に登場した。考古学運動、考古学闘争におけるその世界史的意義については、追って明らかにしたい。

「大衆の考古学」の第一文献は次のとおり。これまで著者を明示してこなかったが、ご本人に了解いただいたので、以後明記する。

斎藤宏「見晴台発掘と僕達の考古学―「職人の考古学」←→「趣味の考古学」を止揚し、「大衆の考古学」を創造しよう!―」伊藤禎樹・犬塚康博・岡本俊朗・小原博樹・斎藤宏・桜井隆司・村越博茂・安田利之『見晴台と名考会に関する問題提起-その2』、1972年11月26日、4-13頁。

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2014年10月21日

天白・元屋敷遺跡破壊事件の根源は名古屋市教育委員会にあり

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昨日、中日新聞が最初に報道した天白・元屋敷遺跡破壊事件は、公社の問題に焦点化されているが、その根源は、40年以上続く名古屋市教育委員会の文化財行政の構造的欠陥にある。

文化財保護の断絶は、天白・元屋敷遺跡破壊事件が明証する。天白・元屋敷遺跡は、上志段味に西接する中志段味の遺跡で、1979年度の名古屋市教育委員会の遺跡分布調査で初めて確認され、同委員会による発掘調査が数度にわたっておこなわれてきた。区画整理事業に際しては、「埋立保存」する旨同委員会が強弁していた遺跡である。その遺跡が、2010年から翌年にかけて広範囲にわたり破壊された。「埋立保存」の強弁をも裏切る、地山から根こそぎの破壊に見舞われたのである。

事件は、2011年6月13日付の「野田農場ホームページ/農場だより」に「土器」の記事と写真が投稿されて公然となった。筆者は、これをコメント付きリツイートしたのち、同月15日に現地で遺物を実見し撮影する。そして、13日の野田農場のツイートにリプライするとともに、遺物の写真10点をFlickrに投稿した。以後、事業主体と名古屋市教育委員会とのあいだで折衝がはじまり、前代未聞の「遺物回収作業」ほかの調査にいたる。

天白・元屋敷遺跡は、『志段味古墳群』刊行にいたるまでの数年間、数多関係者が繁く過ぎったであろう地区にある。しかもそれは、上志段味の古墳群と歴史社会的に密接な関係が予想されもしてきた。さかのぼれば、名古屋市教育委員会史上初となった遺跡分布調査の最初のひとつが守山区だったのは、志段味・吉根地区の特定土地区画整理事業を想定していたからである。その象徴的な成果が、この遺跡―最初の名称は中志段味A遺跡―の発見であった。それを、根こそぎ破壊したのは、文化財保護の断絶、否定、破壊と言わずして何と言おう。畢竟、『志段味古墳群』は、天白・元屋敷遺跡破壊と一対だったのである(1)

『歴史の里』のおためごかし、天白・元屋敷遺跡破壊事件という現実──。

たとえば、『志段味古墳群』と天白・元屋敷遺跡破壊とが一対であったことが、断絶されたサンプルであることを「歴史の里」に強いるであろう。これが初めてではない。今日の見晴台遺跡の端緒たる1971年の史跡公園計画もまた、1972年の桜本町遺跡破壊、1974年の六本松遺跡破壊と一体であった。文化財保護の厚遇/冷遇という南北問題が、隣接して発生した共通も指摘しておこう。見晴台と「歴史の里」の意味は、冒頭に記した「調査され破壊され尽くした累々たる遺跡」、ひとこと「断絶」に還元されるのである(2)

  1. 犬塚康博「経験と歴史の断絶―『志段味古墳群』の検討」『千葉大学人文社会科学研究』第28号、千葉大学大学院人文社会科学研究科、2014年3月30日、2232頁。
  2. 同論文、233-234頁。
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