2015年4月19日

「名古屋城石垣 古墳の石転用か」異論

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▲ 「第2図 東禅寺第2号墳構造図(1)」(部分)

4月15日、読売新聞(YOMIURI ONLINE)が配信した「名古屋城石垣 古墳の石転用か」について少々。他社の記事があるかもしれないが、取り急ぎこれで。

東谷山の古墳の石室に使用されていた石が、名古屋城築城の際に転用されたという物語は、事実かどうか別として、遅くとも大正の頃には知られていた。

里老云ふ、往時名古屋城を築くに方り、此の地方より石垣使用の岩石を給せり、其の時此等の塚を多くを発掘して其の石槨の岩石を運べり、此れより塚に完全なるもの無しと、一帯の古墳は皆之れを発かれ、槨蓋、及槨側岩の良材は殆んど之れを失ひたり(2)

東谷山ではないが、名古屋市守山区下志段味の東禅寺第2号墳の発掘調査では、横穴式石室の両側の柱石に楔の跡が確認され、次のように報告されてもいる。

後世における石室石材の略取であるが、西柱石は現存する先端部と中央部に楔を水平にうちんこで切りだしをはかった痕跡をのこし、相対していたであろう東の柱石は床面に楔痕のある基部をのこすのみである(3)

ここでは、石材略取の理由にまでは踏み込んでいない。当然であろう。この調査からは証明できないためで、考古学の実証主義が守られたかっこうとなっている。もちろん調査者が、『東春日井郡誌』を知らなかったわけはなく、知識、教養として上の報告の背景にあったことは疑い得ない。

以上は、取り急ぎアクセスできた事例にすぎず、このほかにも多くあるであろう。なぜなら、古墳の石の城の石垣への転用は、フィクションも含めて封建時代、封建遺制の時代の、恰好の「物語」あるいは「ジャンル」としてあるからである。ハイカルチャーの裾野を形成する、サブカルチャーと言い得る。

それは措いて、このような先行の事例がありながら、先行とさほど変わりのないことを、あたかもこの記事のもととなった調査や調査者をもって始まりであるかのように、この記事は報道する。楔の痕跡の大きさに関する時代観は、先行に対する新規性と言えるが、この記事が扱う中心にはなく、また「12㎝以上=慶長期」と「名古屋城」とのあいだには論理の溝があり、状況証拠の域をでない。

さらに学芸員の言う、「今後、古墳周辺で刻印石が見つかれば、名古屋城への転用を証明できる」は倒錯である。東谷山で刻印石が見つかっても、名古屋城への転用は直接に証明することはできない。論理的には、名古屋城石垣の石に東谷山の古墳の石であることを証明するものがなければならない。つまり、たとえば楔痕を境にして分かれてしまった石の片方が東谷山に、もう一方が名古屋城にあるような接合資料の確認こそが、明々白々な証拠となる。石の目が接合する場合も含まれるだろう。

前近代的、郷土的物語が、論理性を欠如したままこのようなかたちで21世紀に露出することは異様であり、ただ単に稚拙なだけかもしれないが、一種の歴史修正主義を感じざるを得ない。「歴史の里」の歴史修正主義については別稿(4)で触れたが、名古屋城もまた罹患していることを知るのである。

先行する調査、研究、人、すべてに謙虚であるように。

以下は、記事の転載。写真は省略した。

名古屋城石垣 古墳の石転用か

名古屋城の石垣に、名古屋市守山区内の古墳の石が転用された可能性が、同市名古屋城総合事務所と市教委の調査で明らかになった。石室の石に近世になって開けられた「矢穴」や、クサビを打ち込んで割られた「矢穴跡」が発見されたためで、総合事務所学芸員の市沢泰峰さんは「このようにして切り出された石の用途は城郭の石垣しか考えられない」としている。

発見場所は名古屋城の北東約15キロの東谷山(とうごくさん)古墳群。昨年までの調査で、崩落し露出した数か所の円墳跡から、1列に並んだ矢穴(長さ12~15センチ)や、矢穴跡のある石が見つかった。種類は花こう岩やせん緑岩で、同城でも数多く使われている。

同城の石垣は1610年(慶長15年)、徳川家康の命令で加藤清正、黒田長政ら西国大名による天下普請で築かれた。高さは天守閣の建つ天守台が約20メートル、その他の石垣も5~13メートル、総延長は約8キロに及ぶ。石は各大名が自前で調達し、採石地は小牧市岩崎山や三河湾沿岸、岐阜県海津市の養老山系、三重県尾鷲市周辺などに広がっている。

古墳から転用したとの記録はないが、同古墳群の周辺で、大規模な石垣造成は名古屋城と犬山城(犬山市)だけ。市沢さんは「犬山城は木曽川沿岸の石材が使われ、可能性が残るのは名古屋城」と指摘している。

大名は自分の石である証拠に、採石地で独自の文様を刻んだ例があり、市沢さんは「今後、古墳周辺で刻印石が見つかれば、名古屋城への転用を証明できる」と期待を寄せる。兵庫県姫路市の姫路城などでは、古墳の石棺、石材の石垣への転用が確認されている。

城郭に詳しい三浦正幸・広島大学教授(文化財学)の話「江戸時代、古墳からの転用は特別なことではない。石を割るなどして集めたのは城郭の石垣用ぐらいだ。矢穴は時代が下るほど小さくなり、長さ12センチ以上なら名古屋城が築城された慶長期と考えられる」
2015年04月15日 Copyright © The Yomiuri Shimbun

  1. 杉崎章・宮石宗弘・立松宏・伊藤敬行「名古屋市守山区東禅寺第2号墳」『東名高速道路関係遺跡第1次第2次調査概報』、愛知県教育委員会、1965年、6頁。
  2. 『東春日井郡誌』、ブックショップ「マイタウン」、1987年、1075頁(原本:東春日井郡役所編、1923年)。
  3. 杉崎章・宮石宗弘・立松宏・伊藤敬行、前掲論文、7頁。
  4. 犬塚康博「経験と歴史の断絶――『志段味古墳群』の検討」千葉大学大学院人文社会科学研究科編『千葉大学人文社会科学研究』第28号、千葉大学大学院人文社会科学研究科、2014年3月30日、228-236頁、参照。
2015年1月12日

天白・元屋敷遺跡中世居館雑感

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天白・元屋敷遺跡中世居館の空中写真
▲ 天白・元屋敷遺跡中世居館の空中写真

1月10日の説明会で配布された資料を見ると、中世居館の周溝南辺は、東辺から直角ではなく、鈍角に曲がり、地籍図や空中写真に見えていたようすと一致する。その溝が、さらに北方へ折れ、西に折れる点も同然である。この結果は、地籍図、空中写真のようすを積極的に参照してよいことをうながしている。

これにもとづくと、中世居館の南西に注意がゆく。空中写真によると、前にも触れたように小さい区画(黄色い点線で囲った部分)が見える(1)。これについては、志段味城にあったと伝えられる、二つの曲輪のうちのひとつを想定したが(2)、その場合、資料の図に記載された左側の「出入口?」は、曲輪間のそれだったことになる。

さらに、その南にも小さい区画(緑色の点線で囲った部分)が感じられる。これの南辺は、東にある熊野神社跡の南辺(白い点線で囲った部分)の延長線上にあり、自然的あるいは人文的な何らかの関係を訴えているようである。そして、居館南辺と両者のあいだの一帯を、どう理解するかも課題になってくる。なお、北側の区画(黄色)との境界はよくわからない。

発掘調査すればわかることも多く、わかってあたりまえだが、発掘調査をしなくても、地表面で観察される事実の少なくないことに、あらためてに気づかされる。いまもむかしも、私たちの想像力が問われているのだろう。それは措いて、よく遺されてきたことに感動する。遺してきたのは、大規模ではない農業などこの地域の人びとの生業であった。

  1. 天白・元屋敷遺跡の中世居館は志段味城である〔補訂〕」http://archaeologyscape.kustos.ac/2014/12/21/
  2. 犬塚康博「天白・元屋敷遺跡考」、2頁。(新ウィンドウまたはタブで開く)
2015年1月11日

天白・元屋敷遺跡の範囲(3)

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「中志段味の地名調べ」(部分)
▲ 「中志段味の地名調べ」(部分)

前回は、地形、地名から考察した。今回は、水路の検討から進める。

(6)中志段味低地のおもな水利は、北方、野添川からの取水と、東・南方、段丘崖の湧水とに負っている。字東海道周辺には、野添川からの「さんたんだみぞ(三反田溝)」「だまみぞ(玉溝)」が東西方向にながれ、両水路を南北につなぐ「なかみぞ(中溝)」が3条見られる。それぞれ仮に、東のなかみぞ、中のなかみぞ、西のなかみぞと呼んで見てゆくと、東のなかみぞは構造がしっかりしており、字一本木と字東海道との字界と重なる。西のなかみぞも、字東海道と字宮浦との字界であり、びぎゃあてんとちゃばたの西側を流れる。中のなかみぞは、びぎゃあてんとちゃばたの東側を流れる。西と中のなかみぞは、びぎゃあてんとちゃばたの東西両側を流れており、もとあった微高地に沿っていたものと考えられる。なお、中のなかみぞの途中で、2条ほど短い水路が西側に派生している。おそらくびぎゃあてんやちゃばたの微高地の土を削り取り水田化したのち、導水のために新設さた水路と見られ、びぎゃあてんやちゃばたの旧状とその開発のようすが想像できる。

(7)西と中のなかみぞにはさまれた、びぎゃあてんとちゃばたの部分が微高地であった可能性が大きく浮上してきたところで、それの南と北はどこまで続いていたかが問題となる。北側は、現在、野田農場のトマトハウスやライスセンターのある畑地があり、さらに天白・元屋敷遺跡の北端に接続してゆく。

(8)南側は、北側のように明瞭ではないが、東方から「ちょうげんだみぞ(長玄田溝)」、だまみぞ、なかみぞ3条が合流して1条になった水路が、南へ蛇行する箇所に注意がゆく。ここには、「中志段味の地名調べ」の図によると、地番をもつ道路のような細い区画(①、黄色い部分)も沿っている。このような形状を描く水路や道路は、経験上地形に制約されてできたケースが多い。

(9)この図に限っても②③④がそれに該当し、字宮浦西半の微高地の東縁に沿っている。③は細長い塚状であり、④は、「みやためさのたんぼ(1)」と呼ばれる細長い異形の水田であった。

(10)以上から、①が沿う水路の北側に、微高地の存在が示唆されていると言える。そこには、「彡」状の土地区画が見え、概して他と区別されてひとまとまりを呈しているのも見て取れる。ここを、びぎゃあてんとちゃばたの微高地の南端と考えたい。

(11)大局的に見ると、字東海道(西半)の微高地は、びぎゃあてん・ちゃばたを中心にして南北に三日月形の弧を描くように認められる。これは、西側の天白・元屋敷遺跡の微高地の東端の弧線にも大略平行する。

(12)びぎゃあてん、ちゃばたの微高地が、江戸時代のころに集落だったかどうか、にわかにはわからない。考古学的な遺構・遺物が、求められるところである。字天白、字宮浦(西半)の微高地より遺存状況がよくないのは、比較的古い時期に形成された微高地が、古いゆえに改変を多く受けたためではないかと思われる。あるいは、集落の中心が字天白、字元屋敷、字宮浦(西半)にあり、びぎゃあてんそのが周縁だったため、耕地化の進行が早かったことも考えられる。

(13)これを裏付けるかのようにして、びぎゃあてん、ちゃばたの一帯は、2011年から2012年の工事で失われてしまった。さんたんだ以北は、野田農場の営農によって守られている。

(つづく)

  1. 野田義光「中志段味にあった『神官』─水野光雄さんの先祖」(連載(5)中志段味・見たり聞いたり」志段味の自然と歴史に親しむ会世話人会編『私たちの博物館 志段味の自然と歴史を訪ねて』第5号、1986年6月1日、26頁、編集室(犬塚康博)「みやためさの田んぼ」、同書、27-29頁。
2014年12月21日

天白・元屋敷遺跡の中世居館は志段味城である〔補訂〕

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天白・元屋敷遺跡の空中写真
▲ 天白・元屋敷遺跡の空中写真〔加筆あり〕(クリックで広域の写真)

「天白・元屋敷遺跡考」について、以下のように補訂します。

まず、中世居館について、それまでに発表されている数値を尊重し、60m規模の場合と100m規模の場合とを考えてきましたが、筆者が空中写真で見てきた区画は、地図上で採寸すると東西約100m、南北約110mを数えることがわかりました。よって筆者は、今後100m規模のみを想定したいと思います。この数値は、東側の濠(後述)の外側での大きさになります。志段味の自然と歴史に親しむ会会報に掲載する際は、この点を修正し、改稿する予定です。

次に、掲載した「写真1 (略)下:天白・元屋敷遺跡(1)」について補足します。

赤色の点線で囲った区画が、想定した居館の輪郭です。区画の右側、縦長に白く見える部分が、濠の痕跡ではないかと思われます。

「大きな長方形状の区画の左下方に、小さい正方形状の区画が見える(2)」としたものには黄色の輪郭を記しましたが、南側がよくわかりません。

居館の西側を、旧河道が北東から南西にかけて走っています。その北東に「すいり(3)」と呼ぶ場所があり、「水利」の字をあてていますが、「砂入り」の意ではないでしょうか。だとすれば、名前が残っていることと、痕跡が明瞭なことから、比較的新しい時期(江戸時代?)の河道と思われます。

なお、この東方に「びぎゃあてん(4)」と呼ばれる場所があります。「弁財天」の字をあてていますが、大きな長楕円形の区画の中心に位置しており、これもまた何らかの施設の痕跡かもしれません。

  1. 犬塚康博「天白・元屋敷遺跡考」、2頁。(新ウィンドウまたはタブで開く
  2. 同論文、2頁。
  3. 野田美幸「中志段味の地名調べ」『私たちの博物館 志段味の自然と歴史を訪ねて』第31号、志段味の自然と歴史に親しむ会世話人会、1992年6月10日、10頁。(新ウィンドウまたはタブで開く)
  4. 同論文、10頁。
2014年11月26日

「大衆の考古学」42年を記念する

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42年前のきょう、「大衆の考古学」が実践的かつ理論的に登場した。考古学運動、考古学闘争におけるその世界史的意義については、追って明らかにしたい。

「大衆の考古学」の第一文献は次のとおり。これまで著者を明示してこなかったが、ご本人に了解いただいたので、以後明記する。

斎藤宏「見晴台発掘と僕達の考古学―「職人の考古学」←→「趣味の考古学」を止揚し、「大衆の考古学」を創造しよう!―」伊藤禎樹・犬塚康博・岡本俊朗・小原博樹・斎藤宏・桜井隆司・村越博茂・安田利之『見晴台と名考会に関する問題提起-その2』、1972年11月26日、4-13頁。

2014年11月16日

考古学とSTAP問題

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仲正昌樹氏は書いている。

データねつ造は基本的に、理系の、多くの金と人材を投与して実験や調査を行う必要のある分野で起こる問題である。哲学や文学では、ねつ造するような価値のある資料などほとんどない。歴史学など資料を重視する分野では、新しい史料を発見したふりをすることに多少のメリットはあるかもしれないが、それほど費用対効果があるわけではない(1)

考古学に即してみると「ふり」は多様で、その極相が前期旧石器問題である。皇族お手掘りの土器を、事前に埋めておくというのも知られている。天皇制を支えるうえでの「多少のメリット」はあったのだろう。かつては展示されていたはずのこの土器のことを、当該サイトミュージアムの解説ボランティアにたずねたところ、「あれは問題がありまして・・・」と濁すのに接することがあった。「大日本帝国における「メリット」/戦後日本におけるデメリット」という、被抑圧-抑圧の埋め込まれた認識を知ったのである。

コピペの可能性については文系の諸分野でも当然あり、実際かなり横行しているが、博士論文になると事情はいささか異なる。実験の結果を報告することに主眼が置かれる理系の論文と違って、哲学・思想、文学、歴史等の論文は、考え方の新しさをアピールすることに重点が置かれる。先行研究を踏まえたうえで、自分の考え方の独自性を示さなければならない。先行研究の要約と自分の着眼点、方法を示す序論的な部分は--まともな大学のまともな院生という前提の下での話だが--念入りに書き上げないといけない。指導教員がまともであれば、そこをちゃんと見る(2)

仲正氏は、文系と理系の違いを説く。これにしたがえば、考古学は理系と文系の境界領域にある。考古学の方法論は、層位学と形態学とにあり、前者は地質・古生物学、後者は広く自然科学の分類学に出自をもち、理系である。これらの方法を経ておこなわれる叙述が、文系となる。考古学には、「実験の結果を報告することに主眼が置かれる理系」と、「考え方の新しさをアピールすることに重点が置かれる」文系とがあり、すなわち、両者の間にヒアタスがあることを意味する。

それは、『志段味古墳群(3)』を見れば明らかである。発掘調査報告と尾張氏とを接合する論理が、そこにはない(4)。あるのは、ヒアタスである。そして、「考え方の新しさをアピールすることに重点が置かれる」がゆえに、ヒアタスの一方、結論の側にある「尾張氏」が自立してゆく。無論、これが「考え方の新しさ」かどうかと問えば、否である。現実は、言ったもの勝ち、声の大きいもの勝ち、背景とする権力の大きいもの(=行政権力、国家権力)勝ち、すなわち政治であることのみがあきらかなのだ。

では、ヒアタスのもう一方の側、結果にいたる過程の側にある発掘調査とは何か。層位学を用いるそれを、ここで「実験」と定義してみよう。すると報告書の大半は、実験の記録となる。遺跡の臨床実験の記録となる。当事者に、その自覚や問題意識があるかどうか、ここでは関係ない。

想起するのは、STAP細胞問題で喧伝された再現性である。考古学の発掘調査には、先験的に再現性がない。発掘は破壊であるというまことしやかなアリバイ的免罪符的発話が明証するように、遺構-遺跡を二度と再現できないのが考古学の発掘である。そこでおこなわれる記録採取は、発掘調査における過誤の存否、程度を検証することができない。再現性がないからである。その点、遺物にかかわる形態学は、遺物が存在する限り再現性が存在する。分類-型式論というパズルが、自慰的であろうとなかろうと永続する理由はここにある。しかし、破壊を前提とした発掘調査でも学術調査でも、遺構-遺跡は、埋土・遺物が除去された空虚という結果が強いられる。

では、再現性のない発掘調査報告書は、使いものになるのか。報告書を信頼するか否かは、もはや信心の範疇にあるのではないか。埋蔵文化財調査センターができた1980年代、その報告書はやがて使い物にならなくなるだろう、と予感することがあった。人にそう告げたこともある。直接には、土層断面図が、隣接する発掘区でつながらないという話題に接してのことだったが、それは普く及ぶに違いないと直観した。そしてその30数年後、埋蔵文化財調査センターではなかったが、否、事実上直営の埋文センターが著した『志段味古墳群』の検討(5)で、期せずしてその予感を追認することになったのである。

STAP問題は、専門内外の批判によって白日の下にさらけだされた。考古学の発掘調査報告の構造的問題が明白になる日は、果たして来るのだろうか。かつて市民の学問と言われた考古学は、いまや職業研究者が専横するところとなり、媒体、市民はこれに追随。批判の契機は失われてしまった。職業研究者、追随媒体、追随市民を循環する自家中毒が、報告書のドグマを再生産しているのである。

  1. 「仲正昌樹(第7回) – 月刊極北」http://meigetu.net/?p=843、(2014年5月6日)。
  2. 同文書、(2014年5月6日)。
  3. 名古屋市見晴台考古資料館編『志段味古墳群〔本文編〕』(名古屋市文化財調査報告79、埋蔵文化財調査報告書62)、名古屋市教育委員会、2011年、同『志段味古墳群〔図版編〕』(名古屋市文化財調査報告79、埋蔵文化財調査報告書62)、名古屋市教育委員会、2011年。
  4. 犬塚康博「経験と歴史の断絶―『志段味古墳群』の検討」『千葉大学人文社会科学研究』第28号、千葉大学大学院人文社会科学研究科、2014年3月30日、228-236頁、を参照されたい。
  5. 同論文、228-236頁。
2014年10月28日

「古代の志段味に関する覚え書き」

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28年前に書いた「古代の志段味に関する覚え書き-野田鎮夫氏採集の円面硯4例」のPDFファイルを、「About me」で公開。

冒頭の章で、わたしは次のように書いた。

またこれは、現在的な動機をも促すものである。現在、志段味地区では特定土地区画整理事業を前提とした、埋蔵文化財の発掘調査が実施されているが、この調査はもっぱら行政的な動機で行なわれているものである。学術的な遺跡の評価が必要であることは言うまでもないが、近い将来、この遺跡が遺跡公園として整備・活用される計画のあることを考える時、この評価の作業は調査と併行して今から進められるべきであると考えた。こうした観点から、今私が考え得る限りの事柄を「覚え書き」として整理することを通して、まずは今後の調査に対する予察とすることと、引いては公園のイメージ策定のための検討材料とすることをも期待したものである(1)

この論文は、名古屋市教育委員会の「この遺跡を中心にした史跡(遺跡)公園等の構想について、近いうちに明らかにしてゆきたい(2)」という言明に、正しく呼応している。そして、より原理的に、「天白・元屋敷遺跡の豊かさ」を継承発展し、「天白・元屋敷遺跡の幸せ」を希う作業であった。

  1. 犬塚康博「古代の志段味に関する覚え書き-野田鎮夫氏採集の円面硯4例」『名古屋市博物館研究紀要』第9巻、名古屋市博物館、1986年3月30日、74頁。
  2. 名古屋市見晴台考古資料館編『天白・元屋敷遺跡発掘調査報告書』、名古屋市教育委員会、1985年7月1日、3頁。
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