2015年5月10日

天白・元屋敷遺跡の「びぎゃあてん」

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▲ びぎゃあてんのマウンド(赤色▲)撮影方向。数字は写真番号と同じ。

連載記事「天白・元屋敷遺跡の範囲」では、名古屋市守山区中志段味字東海道の西半にあたる「びぎゃあてん(弁財天)」について何度か触れた。そこでは、地図と空中写真による検証であったが、若干の地上写真が見出されたため紹介しておきたい。

写真は、耕作地のなかにあった土の高まり(マウンド、写真赤色▲)を多方向から撮影したもので、1985–1986年冬の記録である。このマウンドの性格は不明だが、状況から人工の構築物であることは明らかで、「塚」の可能性を考慮して撮影した。当時、この付近がびぎゃあてんと呼ばれることを知らず、「天白・元屋敷遺跡の範囲」で考察したような認識に到っていない段階での観察のため、マウンド周囲への配慮はおこなわれていない。しかし、偶然おさめられた周囲の景色に、びぎゃあてんのようすをかいま見ることができる。注意されたことを、以下に記す。

写真1:マウンドを南方から見る。撮影場所側の水田に比べて、マウンドの向こうが若干高く荒れ地、畑になっている。左の草むらの奥に字東海道の塚と字宮浦の塚があり、左後方に「うじがみやぶ」のクロガネモチの巨木が見える。

写真2:マウンドを南東から見る。マウンドの左側が水田、右側が畑になっている。左後方に字宮浦の微高地が見える。

写真3:マウンドを東から見る。マウンドの左側が水田、右側が畑になっている。左後方の建物は守山高校。

写真4:マウンドを北東から見る。畑の向こう(南)とこちら(北)が水田となっていて、びぎゃあてんの土地利用は入り組んでいた。正面遠方の建物は守山高校。

写真5:マウンドを北から見る。マウンドのむこう(南)は水田だが、さらにそのむこうは耕起された畝が見え、畑のようである。正面に鉄塔がみえる。

写真6:マウンド付近から南東、字寺林の方面を見る。

2015年4月26日

天白・元屋敷遺跡の塚(6)

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字宮浦の塚(西から見る。1985–1986年冬撮影。)
▲ 字宮浦の塚(西から見る。1985–1986年冬撮影。)

字宮浦の塚。「天白・元屋敷遺跡の塚(2)」の図「天白・元屋敷遺跡の空中写真」の⑤。1884(明治17)年の「地籍字分全図」の1048番地、地目「塚」。(2015年3月1日「天白・元屋敷遺跡の神社跡」参照。)南北に長い高まり。土手のようであった。

2015年4月5日

天白・元屋敷遺跡の塚(4)

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字宮浦の塚(南から見る。1985年4月14日、三浦明夫氏撮影。)
▲ 字宮浦の塚(南から見る。1985年4月14日、三浦明夫氏撮影。)

字宮浦の塚(西から見る。1985–1986年冬撮影。)
▲ 字宮浦の塚(西から見る。1985–1986年冬撮影。)

字宮浦の塚(南東から見る。1985–1986年冬撮影。)
▲ 字宮浦の塚(南東から見る。1985–1986年冬撮影。)

字宮浦の塚。「天白・元屋敷遺跡の塚(2)」の図の
野田農場のビニールハウスの南側農道に接してあった。現在は取り除かれて存在しないが、跡地は残っている。

2015年3月1日

天白・元屋敷遺跡の神社跡

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「中志段味地区遺跡分布図」(部分)
▲ 「中志段味地区遺跡分布図(1)」(部分)

1984年12月16日に、志段味の自然と歴史に親しむ会が中志段味で開催した見学会には、折り込み図版1、全58頁のパンフレット『志段味の歴史を見て歩こう!(2)』が用意されて、貴重な情報を多く提供した。そのうち、「中志段味A遺跡」の項目に、次の記載がある。

▽1884(明治17)年の「地籍字分全図」によれば、以下の記載がある。(氾濫原関連分のみ)
・「塚」・・・字宮浦、細長い区画(1048番地。当時―以下同)

[残存。現在の地点は4–付2。]

・「村社」・・・字宮浦、三角形の区画(1108番地)

[残存、現在の地点は4–付3。尚、教育委員会が発掘調査を行なう「B地点・F地点」は、この中に当たる。]

・「小社」・・・字西田。台形の区画(1432番地)

[滅失。守山高校敷地内、4–付4]

▽江戸時代、17921796(寛政48)年の村絵図に(財団法人徳川黎明会蔵)には、この地に「熊野権現」と「天王」の二つの神社が載っている(3)

このうち最初の「塚」は、前回の記事写真の⑤である。別の機会に詳述したい。

寛政8年の村絵図と対比すると、「村社」は「天王」に、「小社」は「熊野権現」にあたる。1984年頃に94歳だった人の話では、熊野権現の場所を「おみやばた(お宮畑)」、天王の場所を「てんのうやぶ(天王薮)」と呼ぶことのほか、「熊野権現は7歳、8歳の頃まであった」「天王さんには提灯を灯しにいった」などの証言を得ている。

  1. 『志段味の歴史を見て歩こう!』、志段味の自然と歴史に親しむ会、1984年。
  2. 同書。
  3. 同書、6–7頁。
2015年2月15日

天白・元屋敷遺跡の塚(2)

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天白・元屋敷遺跡の空中写真〔加筆あり〕(国土地理院「地図・空中写真サービス」、CB855-C1-4(http://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do?specificationId=285684、1985年4月28日撮影))
▲ 天白・元屋敷遺跡の空中写真(部分・クリックすると塚分布図)

天白・元屋敷遺跡の一帯には、字元屋敷の塚(空中写真①)のほかにも、塚がいくつかあった。

字宮浦(東半)の「つかのにし(塚の西)」は、地名の東側にあたる「びぎゃあてん(弁財天)」に塚があったことを暗示しており、野田美幸も「この辺に塚があったのかな?」と添えている。

いまは削り取られてしまったが、1980年代には小規模な塚状の高まりが複数(空中写真②~⑤)あった。外見は、耕作時に出た礫などを集めたもののようだったが、それらを指してつかのにしと言ったのだろうか。

あるいは、びぎゃあてんそのものを塚と呼んだのかもしれない。びぎゃあてんは、前方後円形の後円部にもあたり、全体が大きな塚だったことも、考えられないわけではない。

※天白・元屋敷遺跡の空中写真は、国土地理院「地図・空中写真サービス」、CB855-C1-4(http://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do?specificationId=285684、1985年4月28日撮影、を使用し、野田美幸「中志段味の地名調べ」『私たちの博物館 志段味の自然と歴史を訪ねて』第31号、志段味の自然と歴史に親しむ会世話人会、1992年6月10日、9-11・14頁、の地名、字名などを加筆した。

2015年1月18日

天白・元屋敷遺跡の範囲(4) ─ 字宮浦考

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天白・元屋敷遺跡の範囲(2014年~20115年推定)
▲ 天白・元屋敷遺跡の範囲(2014年~20115年推定)

(14)前回までの検討で、天白・元屋敷遺跡の範囲は、上図のように推定されることになった。赤色に塗ったところはあきらかな「畑」、茶色に塗ったところは微高地(字東海道の推定分を含む)、橙色に塗ったところが字元屋敷の居館跡である。検討が一段落したところで、今回はそれにともなう問題について考えてみたい。

字宮浦(東半)の、「いどのもと(井戸の本)」「つかのにし(塚の西)」「のぐろ」「つじのまえ(辻の前)」一帯の水田は、びぎゃあてんのように土が削り取られたものかもしれないが、その積極的根拠が見出せないため、もとからの低地だったと理解しておきたい。その上で、字宮浦を考えてみよう。

野田美幸は、「宮前はお宮の前と字を見れば分かりますが、宮浦だけは変だと思いました。浦が表裏の裏ではないのです。バス会社の人が、富士塚のふじを富士山の冨士ではなく、藤の花の藤と間違えたように、これも間違いだと私は思いました(1)」と書いていた。字宮前、字宮浦の「宮」が、かつて存した熊野神社を指していると、野田は考えたようだ。しかし字宮前の区域は、段丘下の低地だけでなく段丘上にもわたり、現在の諏訪神社も含むため、諏訪神社の前という意味も否定できない。その場合、字宮浦の「うら」は、諏訪神社の裏とはならなくなる。

そこで、字宮浦を次のようには考えることはできないだろうか。つまり、「陸地が湾曲して湖海が陸地の中に入り込んでいる地形を指す。特に浦・浜は、前近代において湖岸・海岸の集落(漁村・港町)を指す用語としても用いられていた(2)」の「浦」でよいのではないか、と。

その理由の第一は、自然地理的に字宮浦の東半分は低地であり、東半とびぎゃあてんに挟まれて「陸地の中に入り込んでいる地形」であった。第二は、人文地理的に、天白・元屋敷遺跡の発掘調査で中世の川湊がクローズアップされていることがあげられる。この「陸地の中に入り込んでいる地形」が、中世の川湊そのものではないとしても、時期がくだり、川湊は衰退、規模も縮小し、かろうじて神社に附属して営まれていた港、つまり「宮浦」なのではないかと考えられるのである。

敗戦後のころまで、中志段味の江畑の集落には複数の船頭がいたことがわかっている(3)。中志段味低地に集落があった江戸時代には、必ずや多くの船頭がいたはずであり、彼らの船が停泊し、係留し、出入りする港のあった可能性は、きわめて高いと言える。

ところで、川や港、入り江の遺跡を考えると、微高地だけが遺跡ということにはならなくなってくる。遺跡の可能性は、低地にもおよぶ。今回考察した、字宮浦東半の低地が該当する。天白・元屋敷遺跡は、さらに広大な範囲においてとらえられなければならず、そのための保存と調査がテーマになるだろう。

  1. 野田美幸「中志段味の地名調べ」『私たちの博物館 志段味の自然と歴史を訪ねて』第31号、志段味の自然と歴史に親しむ会世話人会、1992年6月10日、9頁。
  2. 「浦 – Wikipedia」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%A6(2015年1月11日)
  3. 野田義光「庄内川と船頭─水運と「大日渡し」」『志段味の自然と歴史を訪ねて』創刊号、志段味の自然と歴史に親しむ会世話人会、1985年8月30日、26-28頁。
2015年1月11日

天白・元屋敷遺跡の範囲(3)

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「中志段味の地名調べ」(部分)
▲ 「中志段味の地名調べ」(部分)

前回は、地形、地名から考察した。今回は、水路の検討から進める。

(6)中志段味低地のおもな水利は、北方、野添川からの取水と、東・南方、段丘崖の湧水とに負っている。字東海道周辺には、野添川からの「さんたんだみぞ(三反田溝)」「だまみぞ(玉溝)」が東西方向にながれ、両水路を南北につなぐ「なかみぞ(中溝)」が3条見られる。それぞれ仮に、東のなかみぞ、中のなかみぞ、西のなかみぞと呼んで見てゆくと、東のなかみぞは構造がしっかりしており、字一本木と字東海道との字界と重なる。西のなかみぞも、字東海道と字宮浦との字界であり、びぎゃあてんとちゃばたの西側を流れる。中のなかみぞは、びぎゃあてんとちゃばたの東側を流れる。西と中のなかみぞは、びぎゃあてんとちゃばたの東西両側を流れており、もとあった微高地に沿っていたものと考えられる。なお、中のなかみぞの途中で、2条ほど短い水路が西側に派生している。おそらくびぎゃあてんやちゃばたの微高地の土を削り取り水田化したのち、導水のために新設さた水路と見られ、びぎゃあてんやちゃばたの旧状とその開発のようすが想像できる。

(7)西と中のなかみぞにはさまれた、びぎゃあてんとちゃばたの部分が微高地であった可能性が大きく浮上してきたところで、それの南と北はどこまで続いていたかが問題となる。北側は、現在、野田農場のトマトハウスやライスセンターのある畑地があり、さらに天白・元屋敷遺跡の北端に接続してゆく。

(8)南側は、北側のように明瞭ではないが、東方から「ちょうげんだみぞ(長玄田溝)」、だまみぞ、なかみぞ3条が合流して1条になった水路が、南へ蛇行する箇所に注意がゆく。ここには、「中志段味の地名調べ」の図によると、地番をもつ道路のような細い区画(①、黄色い部分)も沿っている。このような形状を描く水路や道路は、経験上地形に制約されてできたケースが多い。

(9)この図に限っても②③④がそれに該当し、字宮浦西半の微高地の東縁に沿っている。③は細長い塚状であり、④は、「みやためさのたんぼ(1)」と呼ばれる細長い異形の水田であった。

(10)以上から、①が沿う水路の北側に、微高地の存在が示唆されていると言える。そこには、「彡」状の土地区画が見え、概して他と区別されてひとまとまりを呈しているのも見て取れる。ここを、びぎゃあてんとちゃばたの微高地の南端と考えたい。

(11)大局的に見ると、字東海道(西半)の微高地は、びぎゃあてん・ちゃばたを中心にして南北に三日月形の弧を描くように認められる。これは、西側の天白・元屋敷遺跡の微高地の東端の弧線にも大略平行する。

(12)びぎゃあてん、ちゃばたの微高地が、江戸時代のころに集落だったかどうか、にわかにはわからない。考古学的な遺構・遺物が、求められるところである。字天白、字宮浦(西半)の微高地より遺存状況がよくないのは、比較的古い時期に形成された微高地が、古いゆえに改変を多く受けたためではないかと思われる。あるいは、集落の中心が字天白、字元屋敷、字宮浦(西半)にあり、びぎゃあてんそのが周縁だったため、耕地化の進行が早かったことも考えられる。

(13)これを裏付けるかのようにして、びぎゃあてん、ちゃばたの一帯は、2011年から2012年の工事で失われてしまった。さんたんだ以北は、野田農場の営農によって守られている。

(つづく)

  1. 野田義光「中志段味にあった『神官』─水野光雄さんの先祖」(連載(5)中志段味・見たり聞いたり」志段味の自然と歴史に親しむ会世話人会編『私たちの博物館 志段味の自然と歴史を訪ねて』第5号、1986年6月1日、26頁、編集室(犬塚康博)「みやためさの田んぼ」、同書、27-29頁。
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