2015年6月21日

なにこれ、歴史の里?

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▲ 『朝日新聞』、1969年5月20日(部分、一部改変、画像クリックで別枠オープン。)※大きな画像

古い新聞切り抜きを見ていたところ、「古墳群に大娯楽施設」の文字の踊る記事(1)が視野に飛び込んできた。ちょうど、「上志段味の古墳群に「歴史の里」という娯楽施設をつくるということもあって(2)」と講演したところであり、余計に印象深く、紹介することにした次第。

市長のコメント、「古墳だけでは人が集まりにくいので、施設をつくるようにした」は既視感がある。歴史の里も集客大前提の施設(ハードウェア)であり、さらに事業(ソフトウェア)も企てられる。基本的には、この市長と同じ思想「古墳だけでは人が集まりにくい」のあることが透けて見える。

「このままほうっておくより、多くの人に見てもらった方が文化財保護の関心も強まるのではないか」とは、皮肉であった。放っておかずに大娯楽施設計画をたてたら、文化財保護運動が起きて、関心が強まったからである。この発想は、意識を高めるために弾圧するというのに等しい。

それはさて措き、放っておいたのは誰かで、同市の文化財保護行政の怠慢であろう。市長としての自己反省がここにはない。歴史の里も、これと基本的に変わらない。放っておかずに歴史の里を作り、文化財保護の関心を強める、というコースである。この場合は、弾圧ではなく、生かす権力となる。

しかし、集客主義、観客至上主義は、演者を酷使する。サーカスなら動物を、歴史の里なら古墳を。視野狭窄的に、近視眼的に、刹那的に、いまこのときのためだけに消尽しようとする。上意下達、自己中心の官僚的な文化財保護は、葬送されてしかるべきである。

「原形保存か観光か」の設問はいかに。歴史の里では、原形保存よりも原形破壊が志向されている。志段味大塚古墳の復元造成然り、東大久手古墳の発掘体験然り。そして、観光である。歴史の里は、「原形保存か観光か」ではなく「原形破壊も観光も」というポストモダン戦略が敷かれていることになる。

記事は、あらためて言うまでもなく、高松市にある国指定史跡石清尾山古墳群が、県、市、民間による娯楽施設開発により危機的状況を迎えていた問題をあつかったもの。石清尾山古墳群守る会が結成されて、全国的な保存運動が展開され、古墳群の破壊はまぬかれ、現在は古墳群を活かした高松市峰山公園が経営されている。ただしそれは、歴史の里のように、古墳群を酷使しはしない。諸施設とは棲み分けられて、しずかに「永遠」の眠りに就いている。

  1. 「史跡 原形保存か観光か/古墳群に大娯楽施設/高松市石清尾山/文化人らは非難の声」『朝日新聞』、1969年5月20日、14面。
  2. 「志段味の遺跡をたずねて」、2015年6月10日。
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2015年5月31日

明治44年の天白・元屋敷遺跡

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明治44年の地図
▲ 明治44年の地図

今回は、明治44年(1911)の地図(1)で、天白・元屋敷遺跡の一帯を見てみよう。

低地に神社の記号があり、その西方に広葉樹林が見られる。神社の北東一帯は、白抜きで描かれた広い畑地となっている。ふたつの道が段丘上から続き、庄内川堤防のきわで合流している。

この図を都市計画基本図(2)に重ねると、まず、神社は熊野権現の位置に等しく、広葉樹の記号があるため社叢を有していたことがわかる。西方の広葉樹林は天王の位置に重なるが、神社の記号がないところから、このときすでに社地ではなくなっていたものと思われる。広い畑地は、天白・元屋敷遺跡の微高地とほぼ重なる。これは南東まで拡がっており、びぎゃあてんとちゃぱたに想定した微高地に接触してもいる。広葉樹林もまた微高地であり、江戸時代の集落があった場所の一部とみて差し支えない。

多少問題となるのが、道である。明治44年の地図と1972年の都市計画基本図は作製方法がちがうため、厳密に正しく重ならないことは言うまでもない。その上で、まず、諏訪神社からの道は、段丘上ではずれているものの、段丘下で一致するため、当時は境内を抜けて低地へおりてゆくコースだったのかもしれない。引き続き北西方向にゆく道も、こまかくずれるものの大局的には同一コースをとっている。微高地を過ぎてからは、中世城館の北辺に沿って進み堤防下にいたる。

山嶋からの道は、段丘をおりる直前で二手にわかれる。あるいは図がずれているために、段丘の下でわかれたのかもしれない。いずれにしても、都市計画図より南に三叉路がある。東側の道は、土地区画の境界を微妙に沿いながら北へゆき、中世城館の西で折れて進んだ先で、諏訪神社からの道と合流する。

道を問題にするのは、江戸時代の村絵図との関係からだが、特に山嶋から下った付近の理解は今後の検討課題である。念のために、撮影年不明(1974年以前)の空中写真と重ねると、都市計画図と重ねた際の印象を追認することができる。

  1. 『二万分一地形図名古屋近傍第七号(共二十二面)水野村』、大日本帝国陸地測量部、1911年。
  2. 「1:2,500/名古屋都市計画基本図/VII–MD 76–4/中志段味」、名古屋市、1972年、(http://scr.wagmap.jp/nagoya_tokeizu/files/PDF/S44/001_1.pdf)。
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2015年5月24日

狐塚、二ツ塚、冨士塚

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▲ 「227 春日井郡中志段味村図」(部分(1)

1792(寛政4)年の中志段味村絵図には、「狐塚」「二ッ塚」「冨士塚」という、「塚」の文字をもつ三つの字名が見える。このうち、二ツ塚と冨士塚は現在も使われている。狐塚の字名は残っていなかったが、前回の記事「中志段味・湿ケ遺跡の狐塚」に書いたように、実際に塚があり、地元の人のあいだで語り継がれた内容は、古墳の可能性を示唆していた。二ッ塚、冨士塚も、狐塚同様のものだったのではないだろうか。

この地域の古墳は、段丘の末端、縁辺に築かれる印象がある。寺林古墳群もそうであった。しかし、上志段味の勝手塚古墳、山の田古墳、塚本古墳などのように、段丘上の平坦面に築かれた古墳がないわけではない。中志段味の段丘上平坦面には湿ケ遺跡があるが、古墳および古墳群の展開を考えるべきであろう。そうでなければ、古墳、古墳群があったとしても、闇から闇へと葬り去られるばかりである(2)

  1. 「227 春日井郡中志段味村図」『守山の遺跡と遺物 部門展「身近なまちの考古学―守山の遺跡と遺物」展示図録』、名古屋市博物館、1984年1月28日、66頁。
  2. 湿ケ遺跡破壊!
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2015年5月17日

中志段味・湿ケ遺跡の狐塚

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「中志段味B遺跡周辺遺跡等分布図 」
▲ 「中志段味B遺跡周辺遺跡等分布図(1)」(部分)

狐塚は、大字中志段味湿ケ2013番地。

▼野田一三さんの奥さんが、1957年頃にこの土地を購入した際、前所有者が10年程「地租」を滞納していた事が解かり、不審に思って調べられた。
▼それによると、昔「狐塚」と呼ばれたとても大きな塚があって、上志段味の方の人が子供を戒める時に「狐塚に捨てるぞ」と言ったように、昼中でもうっそうとした森だったという。
▼明治年間、県道多治見線の拡張時に、この塚を崩して軌道の盛土にした。この時、「土器や刀や槍(鉄でできていたものは錆びていた)」が沢山出土した。地元では、これは墓ではなく、小牧山の戦の時、武士を棄て百姓になった人達が、武器を隠した場所と考えていた。その後、軌道から外れた部分の土地を字の所有とし、青年会が耕作権を持っていた。そして、ここでお日待ちやその他の祭をしたという。
▼戦後、青年会が実質的に機能を停止した後は、個人が所有?又は借用?していたらしい。
▼出土品は、諏訪神社の社務所にあると聞いていたので調べてみたがそれらしいものは無かったとの事。
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▼江戸時代、1792(寛政4)年の村絵図(財団法人徳川黎明会蔵)には、「狐塚」という字名が見られる。現在はない。
▼1888(明治21)年の「土地整理図」によれば、字湿ケ2013–1番地と2013–2番地にかけて、不整円形の区画が見られる。県道多治見線の軌道予定線が引かれており、破壊直前の図面と思われる。
▼「まず、湿ケの塚は、県道多治見線にかかったため、明治年間に壊されている。その際出土した土器と刀の鍔を、地元の青年団が保管したが、紛失してしまったという(野田実さんの話による)。」(岡本正貴1983 「守山区の古墳」)

【参考文献】
○岡本正貴1983 「守山の古墳」
(『もりやま』第2号 守山郷土史研究会(2)

  1. 『志段味の歴史を見て歩こう!』、志段味の自然と歴史に親しむ会、1984年、13頁。
  2. 同書、12頁。
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2015年5月10日

天白・元屋敷遺跡の「びぎゃあてん」

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▲ びぎゃあてんのマウンド(赤色▲)撮影方向。数字は写真番号と同じ。

連載記事「天白・元屋敷遺跡の範囲」では、名古屋市守山区中志段味字東海道の西半にあたる「びぎゃあてん(弁財天)」について何度か触れた。そこでは、地図と空中写真による検証であったが、若干の地上写真が見出されたため紹介しておきたい。

写真は、耕作地のなかにあった土の高まり(マウンド、写真赤色▲)を多方向から撮影したもので、1985–1986年冬の記録である。このマウンドの性格は不明だが、状況から人工の構築物であることは明らかで、「塚」の可能性を考慮して撮影した。当時、この付近がびぎゃあてんと呼ばれることを知らず、「天白・元屋敷遺跡の範囲」で考察したような認識に到っていない段階での観察のため、マウンド周囲への配慮はおこなわれていない。しかし、偶然おさめられた周囲の景色に、びぎゃあてんのようすをかいま見ることができる。注意されたことを、以下に記す。

写真1:マウンドを南方から見る。撮影場所側の水田に比べて、マウンドの向こうが若干高く荒れ地、畑になっている。左の草むらの奥に字東海道の塚と字宮浦の塚があり、左後方に「うじがみやぶ」のクロガネモチの巨木が見える。

写真2:マウンドを南東から見る。マウンドの左側が水田、右側が畑になっている。左後方に字宮浦の微高地が見える。

写真3:マウンドを東から見る。マウンドの左側が水田、右側が畑になっている。左後方の建物は守山高校。

写真4:マウンドを北東から見る。畑の向こう(南)とこちら(北)が水田となっていて、びぎゃあてんの土地利用は入り組んでいた。正面遠方の建物は守山高校。

写真5:マウンドを北から見る。マウンドのむこう(南)は水田だが、さらにそのむこうは耕起された畝が見え、畑のようである。正面に鉄塔がみえる。

写真6:マウンド付近から南東、字寺林の方面を見る。

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2015年4月26日

天白・元屋敷遺跡の塚(6)

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字宮浦の塚(西から見る。1985–1986年冬撮影。)
▲ 字宮浦の塚(西から見る。1985–1986年冬撮影。)

字宮浦の塚。「天白・元屋敷遺跡の塚(2)」の図「天白・元屋敷遺跡の空中写真」の⑤。1884(明治17)年の「地籍字分全図」の1048番地、地目「塚」。(2015年3月1日「天白・元屋敷遺跡の神社跡」参照。)南北に長い高まり。土手のようであった。

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2015年4月19日

「名古屋城石垣 古墳の石転用か」異論

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▲ 「第2図 東禅寺第2号墳構造図(1)」(部分)

4月15日、読売新聞(YOMIURI ONLINE)が配信した「名古屋城石垣 古墳の石転用か」について少々。他社の記事があるかもしれないが、取り急ぎこれで。

東谷山の古墳の石室に使用されていた石が、名古屋城築城の際に転用されたという物語は、事実かどうか別として、遅くとも大正の頃には知られていた。

里老云ふ、往時名古屋城を築くに方り、此の地方より石垣使用の岩石を給せり、其の時此等の塚を多くを発掘して其の石槨の岩石を運べり、此れより塚に完全なるもの無しと、一帯の古墳は皆之れを発かれ、槨蓋、及槨側岩の良材は殆んど之れを失ひたり(2)

東谷山ではないが、名古屋市守山区下志段味の東禅寺第2号墳の発掘調査では、横穴式石室の両側の柱石に楔の跡が確認され、次のように報告されてもいる。

後世における石室石材の略取であるが、西柱石は現存する先端部と中央部に楔を水平にうちんこで切りだしをはかった痕跡をのこし、相対していたであろう東の柱石は床面に楔痕のある基部をのこすのみである(3)

ここでは、石材略取の理由にまでは踏み込んでいない。当然であろう。この調査からは証明できないためで、考古学の実証主義が守られたかっこうとなっている。もちろん調査者が、『東春日井郡誌』を知らなかったわけはなく、知識、教養として上の報告の背景にあったことは疑い得ない。

以上は、取り急ぎアクセスできた事例にすぎず、このほかにも多くあるであろう。なぜなら、古墳の石の城の石垣への転用は、フィクションも含めて封建時代、封建遺制の時代の、恰好の「物語」あるいは「ジャンル」としてあるからである。ハイカルチャーの裾野を形成する、サブカルチャーと言い得る。

それは措いて、このような先行の事例がありながら、先行とさほど変わりのないことを、あたかもこの記事のもととなった調査や調査者をもって始まりであるかのように、この記事は報道する。楔の痕跡の大きさに関する時代観は、先行に対する新規性と言えるが、この記事が扱う中心にはなく、また「12㎝以上=慶長期」と「名古屋城」とのあいだには論理の溝があり、状況証拠の域をでない。

さらに学芸員の言う、「今後、古墳周辺で刻印石が見つかれば、名古屋城への転用を証明できる」は倒錯である。東谷山で刻印石が見つかっても、名古屋城への転用は直接に証明することはできない。論理的には、名古屋城石垣の石に東谷山の古墳の石であることを証明するものがなければならない。つまり、たとえば楔痕を境にして分かれてしまった石の片方が東谷山に、もう一方が名古屋城にあるような接合資料の確認こそが、明々白々な証拠となる。石の目が接合する場合も含まれるだろう。

前近代的、郷土的物語が、論理性を欠如したままこのようなかたちで21世紀に露出することは異様であり、ただ単に稚拙なだけかもしれないが、一種の歴史修正主義を感じざるを得ない。「歴史の里」の歴史修正主義については別稿(4)で触れたが、名古屋城もまた罹患していることを知るのである。

先行する調査、研究、人、すべてに謙虚であるように。

以下は、記事の転載。写真は省略した。

名古屋城石垣 古墳の石転用か

名古屋城の石垣に、名古屋市守山区内の古墳の石が転用された可能性が、同市名古屋城総合事務所と市教委の調査で明らかになった。石室の石に近世になって開けられた「矢穴」や、クサビを打ち込んで割られた「矢穴跡」が発見されたためで、総合事務所学芸員の市沢泰峰さんは「このようにして切り出された石の用途は城郭の石垣しか考えられない」としている。

発見場所は名古屋城の北東約15キロの東谷山(とうごくさん)古墳群。昨年までの調査で、崩落し露出した数か所の円墳跡から、1列に並んだ矢穴(長さ12~15センチ)や、矢穴跡のある石が見つかった。種類は花こう岩やせん緑岩で、同城でも数多く使われている。

同城の石垣は1610年(慶長15年)、徳川家康の命令で加藤清正、黒田長政ら西国大名による天下普請で築かれた。高さは天守閣の建つ天守台が約20メートル、その他の石垣も5~13メートル、総延長は約8キロに及ぶ。石は各大名が自前で調達し、採石地は小牧市岩崎山や三河湾沿岸、岐阜県海津市の養老山系、三重県尾鷲市周辺などに広がっている。

古墳から転用したとの記録はないが、同古墳群の周辺で、大規模な石垣造成は名古屋城と犬山城(犬山市)だけ。市沢さんは「犬山城は木曽川沿岸の石材が使われ、可能性が残るのは名古屋城」と指摘している。

大名は自分の石である証拠に、採石地で独自の文様を刻んだ例があり、市沢さんは「今後、古墳周辺で刻印石が見つかれば、名古屋城への転用を証明できる」と期待を寄せる。兵庫県姫路市の姫路城などでは、古墳の石棺、石材の石垣への転用が確認されている。

城郭に詳しい三浦正幸・広島大学教授(文化財学)の話「江戸時代、古墳からの転用は特別なことではない。石を割るなどして集めたのは城郭の石垣用ぐらいだ。矢穴は時代が下るほど小さくなり、長さ12センチ以上なら名古屋城が築城された慶長期と考えられる」
2015年04月15日 Copyright © The Yomiuri Shimbun

  1. 杉崎章・宮石宗弘・立松宏・伊藤敬行「名古屋市守山区東禅寺第2号墳」『東名高速道路関係遺跡第1次第2次調査概報』、愛知県教育委員会、1965年、6頁。
  2. 『東春日井郡誌』、ブックショップ「マイタウン」、1987年、1075頁(原本:東春日井郡役所編、1923年)。
  3. 杉崎章・宮石宗弘・立松宏・伊藤敬行、前掲論文、7頁。
  4. 犬塚康博「経験と歴史の断絶――『志段味古墳群』の検討」千葉大学大学院人文社会科学研究科編『千葉大学人文社会科学研究』第28号、千葉大学大学院人文社会科学研究科、2014年3月30日、228-236頁、参照。
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