2015年4月12日

天白・元屋敷遺跡の塚(5)

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字東海道の塚(西から見る。正面遠方に見えるのは高座山。1985年4月14日、三浦明夫氏撮影。)
▲ 字東海道の塚(西から見る。1985年4月14日、三浦明夫氏撮影。)

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▲ 字東海道の塚(北から見る。1985–1986年冬撮影。)

字東海道、通称びぎゃあてんにあった塚。「天白・元屋敷遺跡の塚(2)」の写真の③と④。字宮浦の塚と近接して3基あったことになる。現在は存在しないが、跡地はあるものと思われる。

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2015年3月23日

天白・元屋敷遺跡の保存と活用を求める署名

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字元屋敷の塚とクロガネモチの木
▲ 字元屋敷の塚とクロガネモチの木

名古屋市長と名古屋市教育委員会教育長にあてた、天白・元屋敷遺跡の保存と活用を求める署名を、志段味の自然と歴史に親しむ会が募集しはじめました。賛同いただける方は、どうぞよろしくお願いいたします。第1次集約は4月10日です。

メールによるご賛同:リンク先のページにある、送信先メールアドレスをクリックするとメールソフトが起動します。

change.orgによるご賛同:いわゆるネット署名です。

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2015年3月8日

Sticky: 第2回天白・元屋敷遺跡シンポジウム

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2回目の天白・元屋敷遺跡のシンポジウムが開催されます。どうぞ、ご参加ください。詳しくは、次のURLのリンク先でご覧ください。
http://shitashimu.shidami.nagoya/tem-moto.php

第2回シンポジウム 天白・元屋敷遺跡
川湊・居館・志段味城を
考古学・古代史・中世史研究から検証する

日時
2015年3月21日(春分の日・土)午後1時~4時30分

会場
中部大学 名古屋(鶴舞)キャンパス 6階大ホール
JR中央本線「鶴舞」駅名大病院口(北口)下車すぐ
地下鉄「鶴舞」駅下車北へ約100m

パネリスト
考古学研究から 伊藤秋男氏
古代史研究から 福岡猛志氏
中世史研究から 青山幹哉氏

主催
志段味の自然と歴史に親しむ会
名古屋歴史科学研究会

入場無料

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2015年2月15日

天白・元屋敷遺跡の塚(2)

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天白・元屋敷遺跡の空中写真〔加筆あり〕(国土地理院「地図・空中写真サービス」、CB855-C1-4(http://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do?specificationId=285684、1985年4月28日撮影))
▲ 天白・元屋敷遺跡の空中写真(部分・クリックすると塚分布図)

天白・元屋敷遺跡の一帯には、字元屋敷の塚(空中写真①)のほかにも、塚がいくつかあった。

字宮浦(東半)の「つかのにし(塚の西)」は、地名の東側にあたる「びぎゃあてん(弁財天)」に塚があったことを暗示しており、野田美幸も「この辺に塚があったのかな?」と添えている。

いまは削り取られてしまったが、1980年代には小規模な塚状の高まりが複数(空中写真②~⑤)あった。外見は、耕作時に出た礫などを集めたもののようだったが、それらを指してつかのにしと言ったのだろうか。

あるいは、びぎゃあてんそのものを塚と呼んだのかもしれない。びぎゃあてんは、前方後円形の後円部にもあたり、全体が大きな塚だったことも、考えられないわけではない。

※天白・元屋敷遺跡の空中写真は、国土地理院「地図・空中写真サービス」、CB855-C1-4(http://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do?specificationId=285684、1985年4月28日撮影、を使用し、野田美幸「中志段味の地名調べ」『私たちの博物館 志段味の自然と歴史を訪ねて』第31号、志段味の自然と歴史に親しむ会世話人会、1992年6月10日、9-11・14頁、の地名、字名などを加筆した。

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2015年2月9日

天白・元屋敷遺跡シンポジウム

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天白・元屋敷遺跡のシンポジウムが開催されます。どうぞご参加ください。詳しくは次のURLのリンク先でご覧ください。
http://shitashimu.shidami.nagoya/tem-moto.php

シンポジウム 天白・元屋敷遺跡
川湊・居館・志段味城を
考古学・中世史・近世史研究から検証する

日時
2015年2月15日(日)午後1時30分~4時30分

会場
中部大学 名古屋(鶴舞)キャンパス 6階大ホール
JR中央本線「鶴舞」駅名大病院口(北口)下車すぐ
地下鉄「鶴舞」駅下車北へ約100m

パネラー
考古学研究から 丸山竜平氏
中世史研究から 水野智之氏
近世史研究から 高木傭太郎氏

入場無料

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2015年2月8日

天白・元屋敷遺跡の塚(1)

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字元屋敷の塚(1985年5月撮影)
▲ 字元屋敷の塚(1985年5月撮影)

天白・元屋敷遺跡には、塚がいくつかあった。よく知られていたのが、字元屋敷の塚である。『名古屋市遺跡分布図(守山区)』にも、記されている。塚にはクロガネモチがあり、周囲も水田として手入れされていたため、遠くからでもよくわかり、美しかった。

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2015年1月18日

天白・元屋敷遺跡の範囲(4) ─ 字宮浦考

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天白・元屋敷遺跡の範囲(2014年~20115年推定)
▲ 天白・元屋敷遺跡の範囲(2014年~20115年推定)

(14)前回までの検討で、天白・元屋敷遺跡の範囲は、上図のように推定されることになった。赤色に塗ったところはあきらかな「畑」、茶色に塗ったところは微高地(字東海道の推定分を含む)、橙色に塗ったところが字元屋敷の居館跡である。検討が一段落したところで、今回はそれにともなう問題について考えてみたい。

字宮浦(東半)の、「いどのもと(井戸の本)」「つかのにし(塚の西)」「のぐろ」「つじのまえ(辻の前)」一帯の水田は、びぎゃあてんのように土が削り取られたものかもしれないが、その積極的根拠が見出せないため、もとからの低地だったと理解しておきたい。その上で、字宮浦を考えてみよう。

野田美幸は、「宮前はお宮の前と字を見れば分かりますが、宮浦だけは変だと思いました。浦が表裏の裏ではないのです。バス会社の人が、富士塚のふじを富士山の冨士ではなく、藤の花の藤と間違えたように、これも間違いだと私は思いました(1)」と書いていた。字宮前、字宮浦の「宮」が、かつて存した熊野神社を指していると、野田は考えたようだ。しかし字宮前の区域は、段丘下の低地だけでなく段丘上にもわたり、現在の諏訪神社も含むため、諏訪神社の前という意味も否定できない。その場合、字宮浦の「うら」は、諏訪神社の裏とはならなくなる。

そこで、字宮浦を次のようには考えることはできないだろうか。つまり、「陸地が湾曲して湖海が陸地の中に入り込んでいる地形を指す。特に浦・浜は、前近代において湖岸・海岸の集落(漁村・港町)を指す用語としても用いられていた(2)」の「浦」でよいのではないか、と。

その理由の第一は、自然地理的に字宮浦の東半分は低地であり、東半とびぎゃあてんに挟まれて「陸地の中に入り込んでいる地形」であった。第二は、人文地理的に、天白・元屋敷遺跡の発掘調査で中世の川湊がクローズアップされていることがあげられる。この「陸地の中に入り込んでいる地形」が、中世の川湊そのものではないとしても、時期がくだり、川湊は衰退、規模も縮小し、かろうじて神社に附属して営まれていた港、つまり「宮浦」なのではないかと考えられるのである。

敗戦後のころまで、中志段味の江畑の集落には複数の船頭がいたことがわかっている(3)。中志段味低地に集落があった江戸時代には、必ずや多くの船頭がいたはずであり、彼らの船が停泊し、係留し、出入りする港のあった可能性は、きわめて高いと言える。

ところで、川や港、入り江の遺跡を考えると、微高地だけが遺跡ということにはならなくなってくる。遺跡の可能性は、低地にもおよぶ。今回考察した、字宮浦東半の低地が該当する。天白・元屋敷遺跡は、さらに広大な範囲においてとらえられなければならず、そのための保存と調査がテーマになるだろう。

  1. 野田美幸「中志段味の地名調べ」『私たちの博物館 志段味の自然と歴史を訪ねて』第31号、志段味の自然と歴史に親しむ会世話人会、1992年6月10日、9頁。
  2. 「浦 – Wikipedia」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%A6(2015年1月11日)
  3. 野田義光「庄内川と船頭─水運と「大日渡し」」『志段味の自然と歴史を訪ねて』創刊号、志段味の自然と歴史に親しむ会世話人会、1985年8月30日、26-28頁。
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