2015年10月18日

天白・元屋敷遺跡二題

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志段味の自然と歴史に親しむ会の会報最新号に、天白・元屋敷遺跡に関する文章をふたつ発表しました。「天白・元屋敷遺跡の範囲」は、3月21日のシンポジウムの際、プリントとしてお配りしたものの定稿です。「川湊という物語」では、天白・元屋敷遺跡の川湊に関する諸問題について、発掘担当者の考え方の変遷や吉田富夫氏の論考などを通じて、考えてみました。どうぞご覧ください。

  • 「天白・元屋敷遺跡の範囲」志段味の自然と歴史に親しむ会世話人会編『私たちの博物館 志段味の自然と歴史を訪ねて』第67号、志段味の自然と歴史に親しむ会世話人会、2015年10月15日、15–22頁。
  • 「川湊という物語」、同書、23–28頁。
2015年7月26日

塚本古墳(1)

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▲ 1911年(明治44)の塚本古墳
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▲ 1985年の塚本古墳
名古屋市守山区上志段味山ノ田に、「塚本古墳」と命名された古墳がある。1995年に調査され、破壊された。その16年後に刊行された報告書は書く。

1995年、区画整理事業にともなう工事用道路建設中に、字山ノ田において古墳が新規に発見され、所在場所の通称から塚本古墳と名づけられた(1)

「新規に発見」とあるのは、1995年当時の名古屋市教育委員会が「新規に発見」したという意味である。

遅くとも1980年代前半までには、古墳の可能性が知られていた。1979年度に守山区の遺跡分布調査を担当した名古屋市教育委員会職員岡本俊朗氏の手控えの名古屋都市計画基本図には、塚本古墳の場所にあたる土地区画に「コフン」と手書きメモが添えられている。地元での聴きとり等で、得られたのであろう。

さらに大日本帝国陸地測量部の地図(2)には、山ノ田の集落と東山の集落の間の水田中に、ケバ線で囲まれたマウンドが描かれており、私たちの注意をひいていた。山ノ田から北西にゆく道は、東山から東にゆく道が、南に逆へ字状に屈曲する箇所で接続するが、そのやや南東、道の東側にマウンドは描かれていて、塚本古墳の場所に対応する。

発掘調査期間は1995年5月10日(水)~19日(金)で、土日閉庁日と雨天をのぞくと、実質5日間の調査であった。報告書には、「発掘調査期間の都合から十分に測量できなかった(3)」の一文が見られるが、正しくは、名古屋市教育委員会の遺跡把握の精度、程度が低かったために、事前に知りえたにもかかわらず見過ごし、工事中に発見、不充分な調査に結果させた、である。典型的な職務怠慢であった。この様式が、天白・元屋敷遺跡破壊や湿ケ遺跡破壊を生み、歴史の里至上主義を形づくってゆくことを知るのは容易だろう。(つづく)

  1. 名古屋市見晴台考古資料館編『塚本古墳』(名古屋市文化財調査報告81、埋蔵文化財調査報告書64)、名古屋市教育委員会、2011年3月28日、1頁。
  2. 二万分一地形図名古屋近傍第七号(共二十二面)水野村』、大日本帝国陸地測量部、1911年。
  3. 名古屋市見晴台考古資料館編、前掲書、1頁。
2015年7月5日

「天白・元屋敷遺跡の未来」

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発掘調査が終了し、発掘会社も撤収した翌日の7月2日(木)、天白・元屋敷遺跡の破壊がはじまりました。保存と活用を求める声を無視して、丁寧に丁寧に検出されてきた、中世城館や古代大溝、古代の住居跡群など貴重な遺構がどんどん壊されてゆきます。言葉を失います。

過日、「志段味の遺跡をたずねて」と題して講演することがありました。その際、「天白・元屋敷遺跡の未来」と立項して、私たちが目の当たりにする遺跡破壊とは何なのかについて触れました。その部分の講演原稿を、以下に再録します。

天白・元屋敷遺跡のお話をしてまいりました。最初に申し上げましたように、この遺跡は区画整理のまっただなかにあります。地盤改良で不法に壊されました。そしていまおこなわれている発掘調査は、調整池をつくるための調査です。つまり、調査が済めば、また根こそぎ破壊されてしまうわけです。遺跡のすべてが失われるわけではありませんが、主要な遺構、つまり中世城館や大溝はなくなってしまいます。これをどうにかして守りたいと思いますが、市も教育委員会も区画整理組合も、公社もまったく熱心ではありません。

私たちは、つい最近、イスラム国、イスラミクステートが博物館の陳列品や遺跡を破壊するのをニュースで見聞きしました。少し前、2001年には、タリバンがバーミヤンの石仏を破壊したニュースに接しました。わたしたち日本人も。これと何ら変わらないことを、日々おこなっているのかもしれないと思えてきます。わが国の、わが民族の、貴重な歴史遺産を、この手で破壊しているわけです。

日本人は、彼らのことをあれこれ言える立場にないでしょう。イスラミクステートやタリバンは、イスラムの信仰を背景としていました。明治維新のときの廃仏毀釈も、政治体制の変化に反応した、神道と仏教という宗教にかかわる動きでした。現在のわが国の遺跡破壊は、信仰ではなく、ただ単に金儲け、拝金です。遺跡の未来は、暗黒と言わざるをえません。そう言えば、金儲けのために戦争をしようという動きもただいま急です。しかし、遺跡の保護、文化財と人のコミュニケーションの幸福なあるべきすがたは、平和な世界のなかにしかあり得ません。イスラミクステートもタリバンも戦時下です。明治維新は内戦状態でした。いまは、復元だ木造再建だとにぎやかな名古屋城ですが、天守閣も御殿も、日米のおろかな戦争指導者とそれを支えた両国民のせいで、失われてしまったことを忘れてはならないと思います。でなければ、きっと繰りかえすでしょう。

長くなりました。以上です。ご静聴、ありがとうございました(1)

  1. 「志段味の遺跡をたずねて」の「6.天白・元屋敷遺跡の未来」講演原稿。2015年6月10日。
2015年5月31日

明治44年の天白・元屋敷遺跡

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明治44年の地図
▲ 明治44年の地図

今回は、明治44年(1911)の地図(1)で、天白・元屋敷遺跡の一帯を見てみよう。

低地に神社の記号があり、その西方に広葉樹林が見られる。神社の北東一帯は、白抜きで描かれた広い畑地となっている。ふたつの道が段丘上から続き、庄内川堤防のきわで合流している。

この図を都市計画基本図(2)に重ねると、まず、神社は熊野権現の位置に等しく、広葉樹の記号があるため社叢を有していたことがわかる。西方の広葉樹林は天王の位置に重なるが、神社の記号がないところから、このときすでに社地ではなくなっていたものと思われる。広い畑地は、天白・元屋敷遺跡の微高地とほぼ重なる。これは南東まで拡がっており、びぎゃあてんとちゃぱたに想定した微高地に接触してもいる。広葉樹林もまた微高地であり、江戸時代の集落があった場所の一部とみて差し支えない。

多少問題となるのが、道である。明治44年の地図と1972年の都市計画基本図は作製方法がちがうため、厳密に正しく重ならないことは言うまでもない。その上で、まず、諏訪神社からの道は、段丘上ではずれているものの、段丘下で一致するため、当時は境内を抜けて低地へおりてゆくコースだったのかもしれない。引き続き北西方向にゆく道も、こまかくずれるものの大局的には同一コースをとっている。微高地を過ぎてからは、中世城館の北辺に沿って進み堤防下にいたる。

山嶋からの道は、段丘をおりる直前で二手にわかれる。あるいは図がずれているために、段丘の下でわかれたのかもしれない。いずれにしても、都市計画図より南に三叉路がある。東側の道は、土地区画の境界を微妙に沿いながら北へゆき、中世城館の西で折れて進んだ先で、諏訪神社からの道と合流する。

道を問題にするのは、江戸時代の村絵図との関係からだが、特に山嶋から下った付近の理解は今後の検討課題である。念のために、撮影年不明(1974年以前)の空中写真と重ねると、都市計画図と重ねた際の印象を追認することができる。

  1. 『二万分一地形図名古屋近傍第七号(共二十二面)水野村』、大日本帝国陸地測量部、1911年。
  2. 「1:2,500/名古屋都市計画基本図/VII–MD 76–4/中志段味」、名古屋市、1972年、(http://scr.wagmap.jp/nagoya_tokeizu/files/PDF/S44/001_1.pdf)。
2015年5月10日

天白・元屋敷遺跡の「びぎゃあてん」

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▲ びぎゃあてんのマウンド(赤色▲)撮影方向。数字は写真番号と同じ。

連載記事「天白・元屋敷遺跡の範囲」では、名古屋市守山区中志段味字東海道の西半にあたる「びぎゃあてん(弁財天)」について何度か触れた。そこでは、地図と空中写真による検証であったが、若干の地上写真が見出されたため紹介しておきたい。

写真は、耕作地のなかにあった土の高まり(マウンド、写真赤色▲)を多方向から撮影したもので、1985–1986年冬の記録である。このマウンドの性格は不明だが、状況から人工の構築物であることは明らかで、「塚」の可能性を考慮して撮影した。当時、この付近がびぎゃあてんと呼ばれることを知らず、「天白・元屋敷遺跡の範囲」で考察したような認識に到っていない段階での観察のため、マウンド周囲への配慮はおこなわれていない。しかし、偶然おさめられた周囲の景色に、びぎゃあてんのようすをかいま見ることができる。注意されたことを、以下に記す。

写真1:マウンドを南方から見る。撮影場所側の水田に比べて、マウンドの向こうが若干高く荒れ地、畑になっている。左の草むらの奥に字東海道の塚と字宮浦の塚があり、左後方に「うじがみやぶ」のクロガネモチの巨木が見える。

写真2:マウンドを南東から見る。マウンドの左側が水田、右側が畑になっている。左後方に字宮浦の微高地が見える。

写真3:マウンドを東から見る。マウンドの左側が水田、右側が畑になっている。左後方の建物は守山高校。

写真4:マウンドを北東から見る。畑の向こう(南)とこちら(北)が水田となっていて、びぎゃあてんの土地利用は入り組んでいた。正面遠方の建物は守山高校。

写真5:マウンドを北から見る。マウンドのむこう(南)は水田だが、さらにそのむこうは耕起された畝が見え、畑のようである。正面に鉄塔がみえる。

写真6:マウンド付近から南東、字寺林の方面を見る。

2015年4月26日

天白・元屋敷遺跡の塚(6)

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字宮浦の塚(西から見る。1985–1986年冬撮影。)
▲ 字宮浦の塚(西から見る。1985–1986年冬撮影。)

字宮浦の塚。「天白・元屋敷遺跡の塚(2)」の図「天白・元屋敷遺跡の空中写真」の⑤。1884(明治17)年の「地籍字分全図」の1048番地、地目「塚」。(2015年3月1日「天白・元屋敷遺跡の神社跡」参照。)南北に長い高まり。土手のようであった。

2015年4月12日

天白・元屋敷遺跡の塚(5)

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字東海道の塚(西から見る。正面遠方に見えるのは高座山。1985年4月14日、三浦明夫氏撮影。)
▲ 字東海道の塚(西から見る。1985年4月14日、三浦明夫氏撮影。)

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▲ 字東海道の塚(北から見る。1985–1986年冬撮影。)

字東海道、通称びぎゃあてんにあった塚。「天白・元屋敷遺跡の塚(2)」の写真の③と④。字宮浦の塚と近接して3基あったことになる。現在は存在しないが、跡地はあるものと思われる。

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