2015年9月27日

「長谷川佳隆氏と歴史の里」

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志段味の自然と歴史に親しむ会の10月例会で、「長谷川佳隆氏と歴史の里」と題してお話します。

今月末に刊行される予定の『千葉大学人文社会科学研究』第31号に投稿した論文、「遺跡と人の交通誌―名古屋市守山区大塚・大久手古墳群」の一部に基づいてお話します。論文を書いている途中で気づき、あらためて書き起こそうと思ったことのあらましも、お話しする予定です。

どうぞよろしくお願いします。

戦前、志段味村の村長を二度務めた長谷川佳隆氏は、上志段味在住の郷土史家でした。志段味村や高蔵寺町などの遺跡を調査し、所蔵品は、現在の京都国立博物館に長く預けられてもいました。上志段味の古墳をたずねる人は、必ず長谷川氏をおとずれて、説明を聞き、案内を請いました。この地域の古墳時代の社会に関する長谷川氏の所論は、ただいまの歴史の里が喧伝する理論と同型であるだけでなく、歴史の里を超越する構造をもっています。例会では、このことをおはなししたいと思います。

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2015年9月20日

「名古屋市における埋蔵文化財発掘調査体制の委託「合理化」に反対する闘いについて」(2)

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「名古屋市における埋蔵文化財発掘調査体制の委託「合理化」に反対する闘いについて」(連載2回目
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2015年9月13日

「名古屋市における埋蔵文化財発掘調査体制の委託「合理化」に反対する闘いについて」

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▲ 「名古屋市における埋蔵文化財発掘調査体制の委託「合理化」に反対する闘いについて」(新ウィンドウまたはタブで開く

名古屋市に埋蔵文化財センターをつくる計画が、1986年度予算要求で提起されたのは、いまから30年前、1985年秋のこと。埋蔵文化財の調査体制を、直営から第三セクター方式に変えるこの計画は、費用の原因者負担が拡大すること、調査の責任があいまいになること、職員の労働条件の悪化など、問題をはらむものであった、反対運動がおこなわれ、計画は撤回された。

1986年、その成果を全国の関係者に紹介するために、「名古屋市における埋蔵文化財発掘調査体制の委託「合理化」に反対する闘いについて」と題する原稿を用意し、『考古学研究』誌に投稿した。考古学研究会編集委員会とのやりとりがあったのち、掲載にはいたらなかった。

その未発表原稿を、数回にわたり連載する。筆者は、「志段味の自然と文化財を考える連絡会(準備会)」で、志段味の自然と歴史に親しむ会、名古屋歴史科学研究会、愛知県歴史教育者協議会、文化財保存全国協議会、自治労名古屋市職員労働組合教育委員会事務局支部の5団体で構成されている。犬塚が草稿をなし、全体の協議に付した結果のものである。

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2015年8月30日

30年めの8月、32年めの8月

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見晴台遺跡の赤松啓介氏 1985年8月4日
▲ 見晴台遺跡の赤松啓介氏 1985年8月4日

見晴台遺跡の赤松啓介氏 1985年8月4日
▲ 見晴台遺跡の赤松啓介氏 1985年8月4日

見晴台遺跡の赤松啓介氏 1985年8月4日
▲ 見晴台遺跡の赤松啓介氏 1985年8月4日

(承前)そして、赤松啓介氏がはじめて見晴台遺跡に立たれた8月から、30年である。

1985年8月3日(土)夕方、名古屋市千種区の王山会館(現在のルブラ王山)で、『岡本俊朗遺稿追悼集 見晴台のおっちゃん奮闘記―日本考古学の変革と実践的精神―』の「出版記念大パーティー」が開催された。大阪からの参加者の自動車に同乗して、神戸から赤松氏が駆けつけられた。翌4日(日)は、午前中に見晴台遺跡第24次発掘調査と考古資料館の見学、ならびに映画「遺跡を掘る」を鑑賞し、午後、八事霊園で墓参した。

それから30年めの8月、岡本さんが逝ってから32年めの8月が、過ぎる。

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2015年8月23日

『見晴台のおっちゃん奮闘記』刊行30年を記念する

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この8月は、『岡本俊朗遺稿追悼集 見晴台のおっちゃん奮闘記―日本考古学の変革と実践的精神―』刊行30年。

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2015年8月16日

塚本古墳(2)

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塚本古墳
▲ 塚本古墳 北西から見る
塚本古墳
▲ 塚本古墳 北から見る
塚本古墳
▲ 塚本古墳 北北東から見る
塚本古墳
▲ 塚本古墳 東北東から見る
塚本古墳
▲ 塚本古墳 東から見る
塚本古墳
▲ 塚本古墳 南東から見る

上志段味山ノ田にあった塚本古墳の発掘調査報告書には、調査より前の古墳の写真がない。「1 調査前(北から)(1)」というキャプションをもつ写真があるが、これも、すでに古墳に手が加わったようすを呈している。工事中に発見されるまで、名古屋市教育委員会の認識にのぼっていなかったのであろう。

ここに、塚本古墳の外観写真がある。撮影年月日は、現在見出し得ていないが、1983年8月以降の1980年代前半であることは確かである。塚本古墳の残存墳丘を、北西から東側を半円弧を描くようにして南東へ移動し、撮影している。古墳の可能性を察知しておこなわれた撮影である。なお、耕作地に入らず、畦道を移動しているため、すべての方向から撮ってはいない。撮影者は犬塚。同行者は深田虎太郎氏。

  1. 名古屋市見晴台考古資料館編『塚本古墳』(名古屋市文化財調査報告81、埋蔵文化財調査報告書64)、名古屋市教育委員会、2011年3月28日、図版3。
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2015年7月26日

塚本古墳(1)

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▲ 1911年(明治44)の塚本古墳
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▲ 1985年の塚本古墳
名古屋市守山区上志段味山ノ田に、「塚本古墳」と命名された古墳がある。1995年に調査され、破壊された。その16年後に刊行された報告書は書く。

1995年、区画整理事業にともなう工事用道路建設中に、字山ノ田において古墳が新規に発見され、所在場所の通称から塚本古墳と名づけられた(1)

「新規に発見」とあるのは、1995年当時の名古屋市教育委員会が「新規に発見」したという意味である。

遅くとも1980年代前半までには、古墳の可能性が知られていた。1979年度に守山区の遺跡分布調査を担当した名古屋市教育委員会職員岡本俊朗氏の手控えの名古屋都市計画基本図には、塚本古墳の場所にあたる土地区画に「コフン」と手書きメモが添えられている。地元での聴きとり等で、得られたのであろう。

さらに大日本帝国陸地測量部の地図(2)には、山ノ田の集落と東山の集落の間の水田中に、ケバ線で囲まれたマウンドが描かれており、私たちの注意をひいていた。山ノ田から北西にゆく道は、東山から東にゆく道が、南に逆へ字状に屈曲する箇所で接続するが、そのやや南東、道の東側にマウンドは描かれていて、塚本古墳の場所に対応する。

発掘調査期間は1995年5月10日(水)~19日(金)で、土日閉庁日と雨天をのぞくと、実質5日間の調査であった。報告書には、「発掘調査期間の都合から十分に測量できなかった(3)」の一文が見られるが、正しくは、名古屋市教育委員会の遺跡把握の精度、程度が低かったために、事前に知りえたにもかかわらず見過ごし、工事中に発見、不充分な調査に結果させた、である。典型的な職務怠慢であった。この様式が、天白・元屋敷遺跡破壊や湿ケ遺跡破壊を生み、歴史の里至上主義を形づくってゆくことを知るのは容易だろう。(つづく)

  1. 名古屋市見晴台考古資料館編『塚本古墳』(名古屋市文化財調査報告81、埋蔵文化財調査報告書64)、名古屋市教育委員会、2011年3月28日、1頁。
  2. 二万分一地形図名古屋近傍第七号(共二十二面)水野村』、大日本帝国陸地測量部、1911年。
  3. 名古屋市見晴台考古資料館編、前掲書、1頁。
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