2016年8月2日

俊朗忌

Posted by fische in Homage

1983年7月26日 第22次見晴台遺跡発掘調査で
▲ 1983年7月26日 第22次見晴台遺跡発掘調査で

岡本俊郎没後33年。

Share
2015年7月26日

塚本古墳(1)

Posted by fische in History, Site

●
▲ 1911年(明治44)の塚本古墳
●
▲ 1985年の塚本古墳
名古屋市守山区上志段味山ノ田に、「塚本古墳」と命名された古墳がある。1995年に調査され、破壊された。その16年後に刊行された報告書は書く。

1995年、区画整理事業にともなう工事用道路建設中に、字山ノ田において古墳が新規に発見され、所在場所の通称から塚本古墳と名づけられた(1)

「新規に発見」とあるのは、1995年当時の名古屋市教育委員会が「新規に発見」したという意味である。

遅くとも1980年代前半までには、古墳の可能性が知られていた。1979年度に守山区の遺跡分布調査を担当した名古屋市教育委員会職員岡本俊朗氏の手控えの名古屋都市計画基本図には、塚本古墳の場所にあたる土地区画に「コフン」と手書きメモが添えられている。地元での聴きとり等で、得られたのであろう。

さらに大日本帝国陸地測量部の地図(2)には、山ノ田の集落と東山の集落の間の水田中に、ケバ線で囲まれたマウンドが描かれており、私たちの注意をひいていた。山ノ田から北西にゆく道は、東山から東にゆく道が、南に逆へ字状に屈曲する箇所で接続するが、そのやや南東、道の東側にマウンドは描かれていて、塚本古墳の場所に対応する。

発掘調査期間は1995年5月10日(水)~19日(金)で、土日閉庁日と雨天をのぞくと、実質5日間の調査であった。報告書には、「発掘調査期間の都合から十分に測量できなかった(3)」の一文が見られるが、正しくは、名古屋市教育委員会の遺跡把握の精度、程度が低かったために、事前に知りえたにもかかわらず見過ごし、工事中に発見、不充分な調査に結果させた、である。典型的な職務怠慢であった。この様式が、天白・元屋敷遺跡破壊や湿ケ遺跡破壊を生み、歴史の里至上主義を形づくってゆくことを知るのは容易だろう。(つづく)

  1. 名古屋市見晴台考古資料館編『塚本古墳』(名古屋市文化財調査報告81、埋蔵文化財調査報告書64)、名古屋市教育委員会、2011年3月28日、1頁。
  2. 二万分一地形図名古屋近傍第七号(共二十二面)水野村』、大日本帝国陸地測量部、1911年。
  3. 名古屋市見晴台考古資料館編、前掲書、1頁。
Share
2015年7月19日

野並谷1号墳 〔3〕

Posted by fische in Miscellanea

野並谷1号墳は、名古屋市遺跡分布図(1)に掲載されていない。同図は滅失した遺跡も掲載しているため、同図作製までに同古墳が滅失していたことにより不掲載となったのではない。遺跡として、認知されなかったようなのである。

同図作製の担当者は、緑区の遺跡分布調査がおこなわれた1978年当時、名古屋市教育委員会職員の岡本俊朗氏であった。同氏は、名古屋市立桜台高等学校歴史クラブのメンバーであり、野並谷1号墳調査時は同クラブに所属していた。同古墳のことを知っていたはずであり、分布図に同古墳を掲載し得る立場にいた。現に、同クラブが調査し報告した「黒石須恵器窯跡(2)」は、「NN104号(黒石N–1号窯)」として分布図に掲載されている。岡本氏は、野並谷1号墳を古墳とみなしていなかったのであろうか。名古屋市教育委員会または名古屋市見晴台考古資料館に保管されているはずの遺跡台帳が、そのあたりの事情を残しているはずである。

なお私は、津田論文(3)を参照して、『新修名古屋市史』第1巻で次のように書いた。

さらに、古鳴海の谷の奥には、野並谷一号墳と名付けられた全長二五㍍ほどの小規模な前方後円墳があった。盗掘を受けていたが、粘土を埋土とする土壙が平面で確認され、調査者は粘土槨とみなしている。古鳴海の谷は、水利の点などから人間活動が成立する条件をそなえており、古墳がつくられた可能性はある(4)

野並谷1号墳の現在の場所は、名古屋市緑区梅里2丁目24−16あたりに後円部が位置するものと思われる。
●
▲ 野並谷1号墳の現在地

  1. 『名古屋市遺跡分布図(緑区)』、名古屋市教育委員会、1979年3月。
  2. 津田素夫「黒石須恵器窯跡」『あゆち』創刊号、名古屋市立桜台高等学校歴史クラブ、1966年3月19日、89–90頁。
  3. 同「野並谷1号墳について」、同書、85–89頁。
  4. 犬塚康博「古墳時代」新修名古屋市史編集委員会編『新修名古屋市史』第1巻、名古屋市、1997年3月31日、431頁。
Share
2014年11月16日

考古学とSTAP問題

Posted by fische in Theory

仲正昌樹氏は書いている。

データねつ造は基本的に、理系の、多くの金と人材を投与して実験や調査を行う必要のある分野で起こる問題である。哲学や文学では、ねつ造するような価値のある資料などほとんどない。歴史学など資料を重視する分野では、新しい史料を発見したふりをすることに多少のメリットはあるかもしれないが、それほど費用対効果があるわけではない(1)

考古学に即してみると「ふり」は多様で、その極相が前期旧石器問題である。皇族お手掘りの土器を、事前に埋めておくというのも知られている。天皇制を支えるうえでの「多少のメリット」はあったのだろう。かつては展示されていたはずのこの土器のことを、当該サイトミュージアムの解説ボランティアにたずねたところ、「あれは問題がありまして・・・」と濁すのに接することがあった。「大日本帝国における「メリット」/戦後日本におけるデメリット」という、被抑圧-抑圧の埋め込まれた認識を知ったのである。

コピペの可能性については文系の諸分野でも当然あり、実際かなり横行しているが、博士論文になると事情はいささか異なる。実験の結果を報告することに主眼が置かれる理系の論文と違って、哲学・思想、文学、歴史等の論文は、考え方の新しさをアピールすることに重点が置かれる。先行研究を踏まえたうえで、自分の考え方の独自性を示さなければならない。先行研究の要約と自分の着眼点、方法を示す序論的な部分は--まともな大学のまともな院生という前提の下での話だが--念入りに書き上げないといけない。指導教員がまともであれば、そこをちゃんと見る(2)

仲正氏は、文系と理系の違いを説く。これにしたがえば、考古学は理系と文系の境界領域にある。考古学の方法論は、層位学と形態学とにあり、前者は地質・古生物学、後者は広く自然科学の分類学に出自をもち、理系である。これらの方法を経ておこなわれる叙述が、文系となる。考古学には、「実験の結果を報告することに主眼が置かれる理系」と、「考え方の新しさをアピールすることに重点が置かれる」文系とがあり、すなわち、両者の間にヒアタスがあることを意味する。

それは、『志段味古墳群(3)』を見れば明らかである。発掘調査報告と尾張氏とを接合する論理が、そこにはない(4)。あるのは、ヒアタスである。そして、「考え方の新しさをアピールすることに重点が置かれる」がゆえに、ヒアタスの一方、結論の側にある「尾張氏」が自立してゆく。無論、これが「考え方の新しさ」かどうかと問えば、否である。現実は、言ったもの勝ち、声の大きいもの勝ち、背景とする権力の大きいもの(=行政権力、国家権力)勝ち、すなわち政治であることのみがあきらかなのだ。

では、ヒアタスのもう一方の側、結果にいたる過程の側にある発掘調査とは何か。層位学を用いるそれを、ここで「実験」と定義してみよう。すると報告書の大半は、実験の記録となる。遺跡の臨床実験の記録となる。当事者に、その自覚や問題意識があるかどうか、ここでは関係ない。

想起するのは、STAP細胞問題で喧伝された再現性である。考古学の発掘調査には、先験的に再現性がない。発掘は破壊であるというまことしやかなアリバイ的免罪符的発話が明証するように、遺構-遺跡を二度と再現できないのが考古学の発掘である。そこでおこなわれる記録採取は、発掘調査における過誤の存否、程度を検証することができない。再現性がないからである。その点、遺物にかかわる形態学は、遺物が存在する限り再現性が存在する。分類-型式論というパズルが、自慰的であろうとなかろうと永続する理由はここにある。しかし、破壊を前提とした発掘調査でも学術調査でも、遺構-遺跡は、埋土・遺物が除去された空虚という結果が強いられる。

では、再現性のない発掘調査報告書は、使いものになるのか。報告書を信頼するか否かは、もはや信心の範疇にあるのではないか。埋蔵文化財調査センターができた1980年代、その報告書はやがて使い物にならなくなるだろう、と予感することがあった。人にそう告げたこともある。直接には、土層断面図が、隣接する発掘区でつながらないという話題に接してのことだったが、それは普く及ぶに違いないと直観した。そしてその30数年後、埋蔵文化財調査センターではなかったが、否、事実上直営の埋文センターが著した『志段味古墳群』の検討(5)で、期せずしてその予感を追認することになったのである。

STAP問題は、専門内外の批判によって白日の下にさらけだされた。考古学の発掘調査報告の構造的問題が明白になる日は、果たして来るのだろうか。かつて市民の学問と言われた考古学は、いまや職業研究者が専横するところとなり、媒体、市民はこれに追随。批判の契機は失われてしまった。職業研究者、追随媒体、追随市民を循環する自家中毒が、報告書のドグマを再生産しているのである。

  1. 「仲正昌樹(第7回) – 月刊極北」http://meigetu.net/?p=843、(2014年5月6日)。
  2. 同文書、(2014年5月6日)。
  3. 名古屋市見晴台考古資料館編『志段味古墳群〔本文編〕』(名古屋市文化財調査報告79、埋蔵文化財調査報告書62)、名古屋市教育委員会、2011年、同『志段味古墳群〔図版編〕』(名古屋市文化財調査報告79、埋蔵文化財調査報告書62)、名古屋市教育委員会、2011年。
  4. 犬塚康博「経験と歴史の断絶―『志段味古墳群』の検討」『千葉大学人文社会科学研究』第28号、千葉大学大学院人文社会科学研究科、2014年3月30日、228-236頁、を参照されたい。
  5. 同論文、228-236頁。
Share
2014年10月26日

「天白・元屋敷遺跡の豊かさ」

Posted by fische in History, Site

28年前の1986年10月に書いた「天白・元屋敷遺跡の豊かさ」のPDFファイルを、「About me」で公開しました。ここからもリンクしましたのでご覧ください。

  • 犬塚康博「天白・元屋敷遺跡の豊かさ」『私たちの博物館 志段味の自然と歴史を訪ねて』第7号、志段味の自然と歴史に親しむ会世話人会、1986年10月3日、19-26頁。

この小文では、「この遺跡を中心にした史跡(遺跡)公園等の構想について、近いうちに明らかにしてゆきたい(1)」という名古屋市教育委員会のことばを引用した上で、「天白・元屋敷遺跡の豊かさが明らかになっていればいる程、構想の中味も豊かなものになるでしょう」と期待を寄せています。しかし名古屋市教育委員会は、明言した「この遺跡を中心にした史跡(遺跡)公園等の構想」をいまもなお明らかにしていません。

ちなみに、現在上志段味に計画中の「歴史の里」は、「この遺跡を中心にし」ていないばかりでなく、「この遺跡」天白・元屋敷遺跡を含んでいません。

  1. 名古屋市見晴台考古資料館編『天白・元屋敷遺跡発掘調査報告書』、名古屋市教育委員会、1985年7月1日、3頁。
Share
2013年11月21日

吉田富夫忌

Posted by fische in History, Homage

その日私は、名古屋考古学会の定期大会にゆき、最新刊の『古代人』の記事と吉田富夫の欠席に異変を感じた。しかし、それ以上に思うことは何もなかった。出席の人の多くがそうだっと思う。

さて、本会発足以来会長として発展のため御尽力いただきました吉田富夫氏に11月より会長をやめていただきました。まことに残念なことではありますが、同人会にて数次にわたり討論しての結果ですので、会員各位におしらせ致します。
その理由は「見晴台遺跡発掘団」の性格が同人会の問題となりました。すなわち名古屋市教育委員会社会教育課は名古屋考古学会へ見晴台遺跡の発掘を一度も依頼したことはなく、名古屋市文化財調査委員の吉田富夫氏へ団長を依嘱したと言明しており、吉田氏自身もまた10月の同人会でその通りであったと證言せられた。すなわち名古屋考古学会が見晴台遺跡の発掘には一度も参加したことはないという解釈であります。これにより、当会は吉田会長により無視されていたという事実がはっきりしました。かかる誤解は吉田氏が会長である限りづっとつづき、無用の混乱をまねきますので会長の地位をさっていただいたわけです(1)

その日、奥さまが帰宅されると、ご主人は亡くなっておられた。奥さまはどうしてよいかわからず、隣家に助けを求められた。隣人は、そのままにして連絡されるようすすめた。

(筆者はさる21日に死去した市文化財調査委員吉田富夫氏、本稿は同氏の絶筆である)(2)

11月25日から翌年3月20日にかけて、『中日新聞』市民版の題字下に「遺跡ここかしこ」が100回連載される。主なきまま。

昨年の11月21日、定期大会を名古屋市瑞穂図書館で盛会裡に終了したが、同日夕刻元吉田富夫会長が急逝されたことを翌日知らされ、思いもかけぬ悲しみであった。23日午後2時、自宅で告別式があり多数の会員、同人がお別れに集り、会も御仏前を供えた。
本号では故人と永い御交際のあった北村斌夫先生におねがいをして故人の面影を綴っていただいた。吉田先生の御冥福を祈る(3)

みんな、イントラ・フェストゥム(木村敏)だったのだ。

8年後には見晴台考古資料館を見られたのに。
6年後には博物館が見られたのに。

  1. 三渡俊一郎「事務局だより」『古代人』第21号、名古屋考古学会事務局、1971年11月20日、14頁。
  2. 吉田富夫「遺跡ここかしこ はじめに・・・」『中日新聞』、1971年11月25日。
  3. 三渡俊一郎「事務局だより」『古代人』第22号、名古屋考古学会事務局、1972年2月20日、27頁。
Share
2013年10月26日

二つの写真

Posted by fische in Activity, History

前回触れた、『見晴台遺跡第10次発掘調査の記録』の表紙・裏表紙(1)の写真は、40年以上にわたり見慣れてきたものである。荒木実、伊藤禎樹、大参義一、丹羽博各氏の姿が見え、私もいる。

ところで、見学会の写真には、公になっているものがもう一つある(2)

▲ 「市民見学会風景」『─第20次記念─見晴台遺跡発掘調査のあゆみ』、名古屋市見晴台考古資料館、1981年7月20日、28頁。

見学会は、この日の午前、午後の2回おこなわれており、アングルの異なる二つの写真が、同じときのものか、別のときのものか、これまで特に気にすることはなかった。

今回、あらためて比較した結果、同じときのものであることがわかった。手がかりは、座る男子生徒a・bと立つ白いワンピースの女性cである。男子生徒dも同一人物と思われ、左の写真では立っているが、右の写真ではaの隣で中腰でしゃがんでいる。場所を移動した、あるいはこれから移動するがゆえの、落ち着かない姿勢と思われる(比較写真参照)。

『─第20次記念─見晴台遺跡発掘調査のあゆみ』を編集したのは、同館職員の岡本俊朗であった。彼の視線が、この写真のどこに注目していたか、とてもよくわかるのである。

  1. 『見晴台遺跡第10次発掘調査の記録』、見晴台遺跡第10次発掘調査団、1972年12月1日、表紙・裏表紙。
  2. 「市民見学会風景」『─第20次記念─見晴台遺跡発掘調査のあゆみ』、名古屋市見晴台考古資料館、1981年7月20日、28頁。
Share
Top