2015年7月19日

野並谷1号墳 〔3〕

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野並谷1号墳は、名古屋市遺跡分布図(1)に掲載されていない。同図は滅失した遺跡も掲載しているため、同図作製までに同古墳が滅失していたことにより不掲載となったのではない。遺跡として、認知されなかったようなのである。

同図作製の担当者は、緑区の遺跡分布調査がおこなわれた1978年当時、名古屋市教育委員会職員の岡本俊朗氏であった。同氏は、名古屋市立桜台高等学校歴史クラブのメンバーであり、野並谷1号墳調査時は同クラブに所属していた。同古墳のことを知っていたはずであり、分布図に同古墳を掲載し得る立場にいた。現に、同クラブが調査し報告した「黒石須恵器窯跡(2)」は、「NN104号(黒石N–1号窯)」として分布図に掲載されている。岡本氏は、野並谷1号墳を古墳とみなしていなかったのであろうか。名古屋市教育委員会または名古屋市見晴台考古資料館に保管されているはずの遺跡台帳が、そのあたりの事情を残しているはずである。

なお私は、津田論文(3)を参照して、『新修名古屋市史』第1巻で次のように書いた。

さらに、古鳴海の谷の奥には、野並谷一号墳と名付けられた全長二五㍍ほどの小規模な前方後円墳があった。盗掘を受けていたが、粘土を埋土とする土壙が平面で確認され、調査者は粘土槨とみなしている。古鳴海の谷は、水利の点などから人間活動が成立する条件をそなえており、古墳がつくられた可能性はある(4)

野並谷1号墳の現在の場所は、名古屋市緑区梅里2丁目24−16あたりに後円部が位置するものと思われる。
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▲ 野並谷1号墳の現在地

  1. 『名古屋市遺跡分布図(緑区)』、名古屋市教育委員会、1979年3月。
  2. 津田素夫「黒石須恵器窯跡」『あゆち』創刊号、名古屋市立桜台高等学校歴史クラブ、1966年3月19日、89–90頁。
  3. 同「野並谷1号墳について」、同書、85–89頁。
  4. 犬塚康博「古墳時代」新修名古屋市史編集委員会編『新修名古屋市史』第1巻、名古屋市、1997年3月31日、431頁。
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2015年7月5日

「天白・元屋敷遺跡の未来」

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発掘調査が終了し、発掘会社も撤収した翌日の7月2日(木)、天白・元屋敷遺跡の破壊がはじまりました。保存と活用を求める声を無視して、丁寧に丁寧に検出されてきた、中世城館や古代大溝、古代の住居跡群など貴重な遺構がどんどん壊されてゆきます。言葉を失います。

過日、「志段味の遺跡をたずねて」と題して講演することがありました。その際、「天白・元屋敷遺跡の未来」と立項して、私たちが目の当たりにする遺跡破壊とは何なのかについて触れました。その部分の講演原稿を、以下に再録します。

天白・元屋敷遺跡のお話をしてまいりました。最初に申し上げましたように、この遺跡は区画整理のまっただなかにあります。地盤改良で不法に壊されました。そしていまおこなわれている発掘調査は、調整池をつくるための調査です。つまり、調査が済めば、また根こそぎ破壊されてしまうわけです。遺跡のすべてが失われるわけではありませんが、主要な遺構、つまり中世城館や大溝はなくなってしまいます。これをどうにかして守りたいと思いますが、市も教育委員会も区画整理組合も、公社もまったく熱心ではありません。

私たちは、つい最近、イスラム国、イスラミクステートが博物館の陳列品や遺跡を破壊するのをニュースで見聞きしました。少し前、2001年には、タリバンがバーミヤンの石仏を破壊したニュースに接しました。わたしたち日本人も。これと何ら変わらないことを、日々おこなっているのかもしれないと思えてきます。わが国の、わが民族の、貴重な歴史遺産を、この手で破壊しているわけです。

日本人は、彼らのことをあれこれ言える立場にないでしょう。イスラミクステートやタリバンは、イスラムの信仰を背景としていました。明治維新のときの廃仏毀釈も、政治体制の変化に反応した、神道と仏教という宗教にかかわる動きでした。現在のわが国の遺跡破壊は、信仰ではなく、ただ単に金儲け、拝金です。遺跡の未来は、暗黒と言わざるをえません。そう言えば、金儲けのために戦争をしようという動きもただいま急です。しかし、遺跡の保護、文化財と人のコミュニケーションの幸福なあるべきすがたは、平和な世界のなかにしかあり得ません。イスラミクステートもタリバンも戦時下です。明治維新は内戦状態でした。いまは、復元だ木造再建だとにぎやかな名古屋城ですが、天守閣も御殿も、日米のおろかな戦争指導者とそれを支えた両国民のせいで、失われてしまったことを忘れてはならないと思います。でなければ、きっと繰りかえすでしょう。

長くなりました。以上です。ご静聴、ありがとうございました(1)

  1. 「志段味の遺跡をたずねて」の「6.天白・元屋敷遺跡の未来」講演原稿。2015年6月10日。
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2015年3月23日

天白・元屋敷遺跡の保存と活用を求める署名

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字元屋敷の塚とクロガネモチの木
▲ 字元屋敷の塚とクロガネモチの木

名古屋市長と名古屋市教育委員会教育長にあてた、天白・元屋敷遺跡の保存と活用を求める署名を、志段味の自然と歴史に親しむ会が募集しはじめました。賛同いただける方は、どうぞよろしくお願いいたします。第1次集約は4月10日です。

メールによるご賛同:リンク先のページにある、送信先メールアドレスをクリックするとメールソフトが起動します。

change.orgによるご賛同:いわゆるネット署名です。

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2014年12月28日

天白・元屋敷遺跡の範囲(1)

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天白・元屋敷遺跡の範囲(1980年)
▲ 図1 天白・元屋敷遺跡の範囲(1980年)
天白・元屋敷遺跡の範囲(1985年)
▲ 図2 天白・元屋敷遺跡の範囲(1985年)
天白・元屋敷遺跡の範囲(2014年推定)
▲ 図3 天白・元屋敷遺跡の範囲(2014年推定)

天白・元屋敷遺跡は、1980年の分布図(図1(1))の範囲が、その後の調査成果を踏まえて修正され、1985年の分布図(図2(2))では西にやや拡張された。これにより、期せずして、現在検出中の中世居館(推定・志段味城)全体を、遺跡範囲に含むことにもなった。

一方、天白・元屋敷遺跡の東限は、字天白の微高地の東端にほぼ重ねられていて、1980年以降変わらない。しかし今回、遺跡周辺の、人道、水路、土地区画の形状、地目、土地の呼び名など人文環境を参照して検討した結果、遺跡の東限はさらに広がることが考えられるようになった(図3(3))。これによると、天白・元屋敷遺跡は、東西、南北ともに約340m、面積約90000㎡の規模を有する大遺跡であったことになる。

分布調査は、実際に現地を踏査して、地表面で確認できる遺物の種類や量で、遺跡範囲を決定する。天白・元屋敷遺跡の東側は遺物散布が希薄だったため、遺跡範囲から脱落したものと想像される。しかし、地表面の観察だけで、遺跡の存否が決定できるわけではない。

(つづく)

  1. 『名古屋市遺跡分布図(守山区)』、名古屋市教育委員会、1980年3月、表面(部分)。
  2. 『名古屋市遺跡分布図(守山区)』、名古屋市教育委員会、1985年3月、表面(部分)。
  3. 『名古屋市遺跡分布図(守山区)』、名古屋市教育委員会、1985年3月、表面(部分)を改変して作成。
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2014年11月20日

湿ケ遺跡破壊!

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以下、急ぎ引用転載。詳しくはあらためて。

2014年11月20日 20時50分

新たな無届け工事が判明 名古屋・守山区の遺跡で

名古屋市守山区の天白元屋敷遺跡内で市の外郭団体「名古屋まちづくり公社」が無届けで土地を造成し、大量の土器を破壊した問題で、古墳―室町時代の土器や陶器が出土している近くの湿ケ(しけ)遺跡(同区中志段味)内でも、無届けで工事をしていたことが新たに分かった。公社が20日に会見し、謝罪した。

公社は、土地区画整理事業を行っている湿ケ遺跡内で2007年以降、排水路や道路整備のために計8カ所で地面を1~2メートルほど掘削。その際、文化財保護法で義務付けられている市教委への事前の届け出を怠っていた。

担当者が届け出が不要と思い込んだことなどが原因。既に現場のほとんどは道路舗装などを終えており、文化財の有無や破壊されたかどうかも確認できない。

無届け工事をめぐっては、天白元屋敷遺跡の不法造成が10月に本紙の報道で発覚。公社が志段味地区全体で過去の状況を調べたところ、今回の無届け工事が判明した。

(中日新聞)

それにしても、上志段味の古墳調査に往き来した名古屋市教育委員会の職員は、県道志段味田代町線を通行しなかったのだろうか。それならば、7年間であろうと、何年であろうと、気づかないことはあるかもしれない。

しかし通っていたのなら、遺跡範囲を通過しながら、あちこちでおこなわれる工事に気づかなかったのだろうか。目先の職務は果たしても、文化財保護法の精神から来した物質であるところのおのれの根拠に、一度として立ち返ることはなかったのか。

破壊事件の根源は名古屋市教育委員会にあり、と言わざるを得ない。文化財保護後進都市名古屋。


▲ 「名古屋市遺跡分布図(守山区)」、名古屋市教育委員会、1985年3月、表面(部分) 〔1-65下寺林古墳(寺林2号墳)、1-66上寺林古墳(寺林1号墳)、1-67志段味城跡、1-68天白元屋敷遺跡、1-69湿ケ遺跡〕

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2014年11月16日

考古学とSTAP問題

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仲正昌樹氏は書いている。

データねつ造は基本的に、理系の、多くの金と人材を投与して実験や調査を行う必要のある分野で起こる問題である。哲学や文学では、ねつ造するような価値のある資料などほとんどない。歴史学など資料を重視する分野では、新しい史料を発見したふりをすることに多少のメリットはあるかもしれないが、それほど費用対効果があるわけではない(1)

考古学に即してみると「ふり」は多様で、その極相が前期旧石器問題である。皇族お手掘りの土器を、事前に埋めておくというのも知られている。天皇制を支えるうえでの「多少のメリット」はあったのだろう。かつては展示されていたはずのこの土器のことを、当該サイトミュージアムの解説ボランティアにたずねたところ、「あれは問題がありまして・・・」と濁すのに接することがあった。「大日本帝国における「メリット」/戦後日本におけるデメリット」という、被抑圧-抑圧の埋め込まれた認識を知ったのである。

コピペの可能性については文系の諸分野でも当然あり、実際かなり横行しているが、博士論文になると事情はいささか異なる。実験の結果を報告することに主眼が置かれる理系の論文と違って、哲学・思想、文学、歴史等の論文は、考え方の新しさをアピールすることに重点が置かれる。先行研究を踏まえたうえで、自分の考え方の独自性を示さなければならない。先行研究の要約と自分の着眼点、方法を示す序論的な部分は--まともな大学のまともな院生という前提の下での話だが--念入りに書き上げないといけない。指導教員がまともであれば、そこをちゃんと見る(2)

仲正氏は、文系と理系の違いを説く。これにしたがえば、考古学は理系と文系の境界領域にある。考古学の方法論は、層位学と形態学とにあり、前者は地質・古生物学、後者は広く自然科学の分類学に出自をもち、理系である。これらの方法を経ておこなわれる叙述が、文系となる。考古学には、「実験の結果を報告することに主眼が置かれる理系」と、「考え方の新しさをアピールすることに重点が置かれる」文系とがあり、すなわち、両者の間にヒアタスがあることを意味する。

それは、『志段味古墳群(3)』を見れば明らかである。発掘調査報告と尾張氏とを接合する論理が、そこにはない(4)。あるのは、ヒアタスである。そして、「考え方の新しさをアピールすることに重点が置かれる」がゆえに、ヒアタスの一方、結論の側にある「尾張氏」が自立してゆく。無論、これが「考え方の新しさ」かどうかと問えば、否である。現実は、言ったもの勝ち、声の大きいもの勝ち、背景とする権力の大きいもの(=行政権力、国家権力)勝ち、すなわち政治であることのみがあきらかなのだ。

では、ヒアタスのもう一方の側、結果にいたる過程の側にある発掘調査とは何か。層位学を用いるそれを、ここで「実験」と定義してみよう。すると報告書の大半は、実験の記録となる。遺跡の臨床実験の記録となる。当事者に、その自覚や問題意識があるかどうか、ここでは関係ない。

想起するのは、STAP細胞問題で喧伝された再現性である。考古学の発掘調査には、先験的に再現性がない。発掘は破壊であるというまことしやかなアリバイ的免罪符的発話が明証するように、遺構-遺跡を二度と再現できないのが考古学の発掘である。そこでおこなわれる記録採取は、発掘調査における過誤の存否、程度を検証することができない。再現性がないからである。その点、遺物にかかわる形態学は、遺物が存在する限り再現性が存在する。分類-型式論というパズルが、自慰的であろうとなかろうと永続する理由はここにある。しかし、破壊を前提とした発掘調査でも学術調査でも、遺構-遺跡は、埋土・遺物が除去された空虚という結果が強いられる。

では、再現性のない発掘調査報告書は、使いものになるのか。報告書を信頼するか否かは、もはや信心の範疇にあるのではないか。埋蔵文化財調査センターができた1980年代、その報告書はやがて使い物にならなくなるだろう、と予感することがあった。人にそう告げたこともある。直接には、土層断面図が、隣接する発掘区でつながらないという話題に接してのことだったが、それは普く及ぶに違いないと直観した。そしてその30数年後、埋蔵文化財調査センターではなかったが、否、事実上直営の埋文センターが著した『志段味古墳群』の検討(5)で、期せずしてその予感を追認することになったのである。

STAP問題は、専門内外の批判によって白日の下にさらけだされた。考古学の発掘調査報告の構造的問題が明白になる日は、果たして来るのだろうか。かつて市民の学問と言われた考古学は、いまや職業研究者が専横するところとなり、媒体、市民はこれに追随。批判の契機は失われてしまった。職業研究者、追随媒体、追随市民を循環する自家中毒が、報告書のドグマを再生産しているのである。

  1. 「仲正昌樹(第7回) – 月刊極北」http://meigetu.net/?p=843、(2014年5月6日)。
  2. 同文書、(2014年5月6日)。
  3. 名古屋市見晴台考古資料館編『志段味古墳群〔本文編〕』(名古屋市文化財調査報告79、埋蔵文化財調査報告書62)、名古屋市教育委員会、2011年、同『志段味古墳群〔図版編〕』(名古屋市文化財調査報告79、埋蔵文化財調査報告書62)、名古屋市教育委員会、2011年。
  4. 犬塚康博「経験と歴史の断絶―『志段味古墳群』の検討」『千葉大学人文社会科学研究』第28号、千葉大学大学院人文社会科学研究科、2014年3月30日、228-236頁、を参照されたい。
  5. 同論文、228-236頁。
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2014年11月2日

天白・元屋敷遺跡の幸せ

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▲ 中志段味、吉根で配布された名古屋市教育委員会のチラシ

3年前の天白・元屋敷遺跡の破壊について、10月20日に中日新聞朝刊が報道した。CBC、NHK、メ~テレ、毎日新聞、東海テレビ、朝日新聞、テレビ朝日等がそれに続き、インターネット上のさまざまな媒体でも言及されていった。

2010年から2011年にかけておこなわれた、名古屋まちづくり公社と名古屋市中志段味特定土地区画整理組合による天白・元屋敷遺跡の大規模破壊は、埋蔵文化財の取り扱いが、単なる事務処理になったことを示した。役所と関連機関の中で、熟読されることなく書類にはんこが押され、右から左へと流れてゆく、あのありふれた光景が浮かぶ。当事者は「手続きミス」「勘違い」としか言わないが、能う限りの責任回避、自己保身の弁なのだろう。国民に開かれた文化財に関して不具不能の者たち──文字通り非国民──、国民に開かれない内向きの者たちの弁だとすればうなずけないこともない。

30年前、天白・元屋敷遺跡はどのように扱われていたか──。手許にある当時の配布物5点(1)を手がかりに見てみよう。区画整理組合が設立されていないころ、遺跡の調査は名古屋市教育委員会が直営、国庫補助金等公費でおこなっていた。1979年に発見されたばかりの、この遺跡の性格と範囲を確認するために、小規模な発掘区を設け、数次にわたって実施していた。その際には見学会をおこない、出土遺物の展示もした。当時はあたりまえの光景だが、いまからすれば、とてもていねいに映る。天白・元屋敷遺跡は、まだ幸せだった。

名古屋市教育委員会は、なぜこの遺跡の範囲や実態を確認していたのか。「現在検討が進められている区画整理事業とは、直接の関係はありません(2)」として、間接の関係を暗示していた。すなわち、区画整理で破壊される遺跡の調査費用を、将来設立される区画整理組合に負担させるために必要な基礎データを集めていたのである。

このころは、調査に関するチラシがよく配布されていた。その文面では、「地元の皆様(3)」「皆様方(4)」「土地所有者のみなさん(5)」「周辺にお住まいの方々をはじめ、皆様(6)」すなわち近未来の区画整理組合組合員、発掘調査費用の負担者に対し、慇懃な呼びかけがおこなわれていたが、これはすべて、発掘調査費用を負担する原因者へのお作法、あるいはお便法だったのだ。

1995年12月に、名古屋市中志段味特定土地区画整理組合の設立認可が公告された。それ以降の詳細を知らないが、大規模破壊後付け焼き刃の「遺物回収作業」のときも、現在の発掘調査においても、その成果は地元および市民に公開されていない。かつては、報告書を刊行し、なおかつ「スライド、出土品等を使用(7)」する報告会もおこなっていた。事業者が民間すなわち区画整理組合だから、報告会を開催できないということはない。名古屋市吉根特定土地区画整理組合は、名古屋市教育委員会とともに現地説明会を開催していた(8)。中志段味でやれない理由はない。やらないだけである。それに対して教育委員会は、なぜ指導しない?遺跡調査の金を出させるまでは地元に対しベタベタに媚びて、金を出させたらもうそれっきりなのか?そして自分たちは、金目目当ての墓暴き、墓泥棒さながら古墳を掘り散らかし弄んでのお楽しみか?自分たちが、「生き残り」とか称してプレイヤーになってしまっては、民間に対して指導できるはずもない。

役所と関係機関における、単なる事務手続きとして埋蔵文化財が取り扱われ、ミスがあってもスルーされて、天白・元屋敷遺跡は大規模破壊された。破壊の事後処理も、始末書と「遺物回収作業」という内向きに終始した。役所と関係機関の外部には、3年間何も知らされなかった。わたくしを含めたごくごく少数の人間が、自力でその事実を知り、外に対して発信していた以外は──。

1980年代後半のバブル景気のころ、発掘調査は工期の一部に定着し、考古学とは別の相貌を得ていった。そしていま、発掘調査は単なる事務手続きと化した。不幸せな天白・元屋敷遺跡が、そう教えている。

  1. 「遺跡発掘調査概要報告会開催のお知らせ」、名古屋市教育委員会、(1985年4月13日配布)、「発掘調査開始のお知らせ」、名古屋市教育委員会、(1985年12月配布)、「─遺跡発掘調査概要報告会のお知らせ─」、名古屋市教育委員会、(1986年6月1日までに配布)、「天白・元屋敷遺跡第3次発掘調査開始のお知らせ」、名古屋市教育委員会。1995年、「現地説明会開催のお知らせ」、名古屋市教育委員会・名古屋市吉根特定土地区画整理組合、(1985年10月22日配布)。PDFファイル参照。
  2. 「発掘調査開始のお知らせ」。
  3. 「遺跡発掘調査概要報告会開催のお知らせ。
  4. 同チラシ。
  5. 「発掘調査開始のお知らせ」。
  6. 「天白・元屋敷遺跡第3次発掘調査開始のお知らせ」。
  7. 「─遺跡発掘調査概要報告会のお知らせ─」。
  8. 「現地説明会開催のお知らせ」。
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