2015年5月24日

狐塚、二ツ塚、冨士塚

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▲ 「227 春日井郡中志段味村図」(部分(1)

1792(寛政4)年の中志段味村絵図には、「狐塚」「二ッ塚」「冨士塚」という、「塚」の文字をもつ三つの字名が見える。このうち、二ツ塚と冨士塚は現在も使われている。狐塚の字名は残っていなかったが、前回の記事「中志段味・湿ケ遺跡の狐塚」に書いたように、実際に塚があり、地元の人のあいだで語り継がれた内容は、古墳の可能性を示唆していた。二ッ塚、冨士塚も、狐塚同様のものだったのではないだろうか。

この地域の古墳は、段丘の末端、縁辺に築かれる印象がある。寺林古墳群もそうであった。しかし、上志段味の勝手塚古墳、山の田古墳、塚本古墳などのように、段丘上の平坦面に築かれた古墳がないわけではない。中志段味の段丘上平坦面には湿ケ遺跡があるが、古墳および古墳群の展開を考えるべきであろう。そうでなければ、古墳、古墳群があったとしても、闇から闇へと葬り去られるばかりである(2)

  1. 「227 春日井郡中志段味村図」『守山の遺跡と遺物 部門展「身近なまちの考古学―守山の遺跡と遺物」展示図録』、名古屋市博物館、1984年1月28日、66頁。
  2. 湿ケ遺跡破壊!
2015年5月3日

続・「名古屋城石垣 古墳の石転用か」異論

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「㉞刻印石」
▲ 「㉞刻印石」(部分)

先の正編で、次のように書いた。

さらに学芸員の言う、「今後、古墳周辺で刻印石が見つかれば、名古屋城への転用を証明できる」は倒錯である。東谷山で刻印石が見つかっても、名古屋城への転用は直接に証明することはできない(1)

以下は、証明できないことの証明である。

刻印石は、名古屋市中区の紫川遺跡の発掘調査で見つかっている。これを出品した展覧会図録は、写真とともに次のように書いた。

㉞刻印石
江戸時代の城下町に流れていた紫川(水路)の護岸の敷石として使われていたもので、名古屋城の石垣に見える刻印に酷似した印が刻まれている。築城時代の残石が利用されたものか。(現中区大須一丁目出土(2)

「築城時代の残石が利用されたものか」とは、疑問形で書く通りにこれは想像であり、刻印石が名古屋城以外で知られていなかった当時の現状を背景に、「城下町・名古屋」という展覧会タイトルに寄せて、名古屋城への想像力を誘ったものと考えられる。このキャプションの執筆者は不明だが、展覧会の主担当は岸雅裕氏であり、厳しい史料批判で知られる研究者であったから、逸脱はしていないとみなしてよい。

事実は、刻印石が名古屋城と紫川遺跡で確認されているということである。展覧会が開催された1987年以後の、発見例があるかもしれない。いずれにしても、「今後、古墳周辺で刻印石が見つかれば、名古屋城への転用を証明できる」というのは明白な虚偽で、名古屋城または紫川への転用が想念される程度なのである。厳密には、前回書いた次のとおりである。

論理的には、名古屋城石垣の石に東谷山の古墳の石であることを証明するものがなければならない。つまり、たとえば楔痕を境にして分かれてしまった石の片方が東谷山に、もう一方が名古屋城にあるような接合資料の確認こそが、明々白々な証拠となる。石の目が接合する場合も含まれるだろう(3)

なお、この刻印石は名古屋市博物館に蔵されている。

  1. 「名古屋城石垣 古墳の石転用か」異論
  2. 名古屋市博物館編『開館10周年記念特別展 城下町・名古屋 江戸時代の町と人 一九八七・九・二十六~十一・一』、名古屋市博物館、1987年9月25日、21頁。
  3. 「名古屋城石垣 古墳の石転用か」異論
2014年10月28日

「古代の志段味に関する覚え書き」

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28年前に書いた「古代の志段味に関する覚え書き-野田鎮夫氏採集の円面硯4例」のPDFファイルを、「About me」で公開。

冒頭の章で、わたしは次のように書いた。

またこれは、現在的な動機をも促すものである。現在、志段味地区では特定土地区画整理事業を前提とした、埋蔵文化財の発掘調査が実施されているが、この調査はもっぱら行政的な動機で行なわれているものである。学術的な遺跡の評価が必要であることは言うまでもないが、近い将来、この遺跡が遺跡公園として整備・活用される計画のあることを考える時、この評価の作業は調査と併行して今から進められるべきであると考えた。こうした観点から、今私が考え得る限りの事柄を「覚え書き」として整理することを通して、まずは今後の調査に対する予察とすることと、引いては公園のイメージ策定のための検討材料とすることをも期待したものである(1)

この論文は、名古屋市教育委員会の「この遺跡を中心にした史跡(遺跡)公園等の構想について、近いうちに明らかにしてゆきたい(2)」という言明に、正しく呼応している。そして、より原理的に、「天白・元屋敷遺跡の豊かさ」を継承発展し、「天白・元屋敷遺跡の幸せ」を希う作業であった。

  1. 犬塚康博「古代の志段味に関する覚え書き-野田鎮夫氏採集の円面硯4例」『名古屋市博物館研究紀要』第9巻、名古屋市博物館、1986年3月30日、74頁。
  2. 名古屋市見晴台考古資料館編『天白・元屋敷遺跡発掘調査報告書』、名古屋市教育委員会、1985年7月1日、3頁。
2014年9月14日

蛸畑遺跡〔6〕

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蛸畑貝塚(緑区)
「尾張志」などに、鳴海宿の東北三十丁(約三・三キロ)にある蛸(たこ)畑の地は、海岸から遠くへだつのに海の貝殻を出すことを記すのは、貝塚の存在を暗示するようである。「尾張名所図会」には「章魚(たこ)畠の古覧」と題して、大だこが芋畑に上がり、芋を食べる図まで入れて、話題の興味を一層引き立てている。
それはさておき、この地、その記事に迷わされていっこうにわからなかったが、蛸畑の地名は、実は鳴海の南東、細根の手前にあり、相原から扇川を渡って、細根へ通ずる道路が、低地の水田から、台地の畑へかかる西側の台地縁に、ハマグリ・カキ・アサリ・シジミを出すことを発見したから、ここを指すのであろう。学史的な遺跡だから、大切にしたい(1)

「学史的な遺跡だから、大切にしたい」。ここに自動車道が通過することを吉田は知っていて、このように書いたのだろうか。検見塚にそうしたように。しかし、吉田の希望に反して、蛸畑遺跡は滅失した(2)

ところで、「名古屋における発見と調査のあゆみ」と副題して開催した1988年の名古屋市博物館特別展「考古学の風景」は、蛸畑遺跡をとりあげなかった。遅きに失したが、26年後のこの「考古学の風景」で明記する。

  1. 吉田富夫「遺跡ここかしこ/蛸畑貝塚(緑区)」『中日新聞』第10662号、1972年1月31日、7面。
  2. 名古屋市教育委員会『名古屋市遺跡地図(緑区)』、1979年3月。
2014年3月30日

岸雅裕三回忌

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2012年3月30日逝去。

2013年12月7日

吉田富夫の博物館論

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博物館に関する吉田富夫の発言の最初がいつで、それはどのようなものだったのか──。

1969年に吉田は、次のように書いている。

諸外国では、どんな小都市でも、その町の歴史をひと目でわからせてくれる博物館を持っているという。わが国でも最近では案外中小都市がこれを決行しているのに、名古屋にまだそのことがないのは恥ずかしい次第である。また諸外国の教育は、博物館における実物教育が、効果的かつ重要な方法となりつつある。図書を読むだけの知識ですましていたのでは、一向に実力はつかない。名古屋の官、財界も教育界も、みな手を携えて、こうした施設の完備に力を入れたいものだし、社寺など文化財所有の向きも、適宜な方法で展示見学の便を与えるように、考慮を払ってほしいと思われる。博物館施設は本市かねての懸案のひとつであるが、こぞってその実現に協力せられ、一日も早くその活用の可能な日の来るのを待つこととしよう(1)

原始から明治までの名古屋の文化史を、考古学的事実を中心にして著した単著の「むすび」が、博物館であった。

同じ時期、さらに詳しく説いている。

史跡公園が、遺跡保存活用の最良の方途だとすると遺物保存活用のための最善の施設は、やはり博物館ということになろう。
遺物はただ並べて見せればいいというものではない。美術品ならそれ自体の美を鑑賞すればいいのだから、別に手を加える要はない。しかし遺物は出土状態がたいせつな場合も多く、そうした説明図が必要であろうし、使用法を知らせるためには、復元のための加工も必要となろう。要するに当時の生活の状態を知らせるのには、いろいろな工夫と設備が必要なのである。そのためにの設備が完備している場所でなければ、工夫もしにくいと同時に、勉強も不充分にしかできないのである。
この意味では、博物館はまず収蔵庫でなければならないと同時に、先にもちょっと述べた通り、教育の場でなければならない。わが国では図書による教育は非常に盛んで、図書館は普及している。しかし、実物による教育の方が、さらに必要であることは当然のはなしである。単なる物置きか倉庫でしかない博物館さえも少ないであろうに、そのための博物館というのは、一層少ないのが現状である。
外国では常に催しものを行なって、いつも大衆を博物館に引きつけている。静的な物置きにしておかずに、動的に活用し続けているのである。「さわってはいけません」と禁止するのでなく、備品を貸与して自由に研究させるのである。博物館における学習活動ということが、珍しいことではなくなっている。
したがって大衆と博物館との間の関係は、一層緊密である。珍しいみやげを自家に死蔵せず故郷の博物館へ寄贈することを約束して安心する例は、よく見聞きするところである。個人の収集が核をなしてでき上がった博物館もよくあるし、第一どんな中小都市でも、まずその歴史を知らせる博物館のないところはないほどである。
わが国の文化財保存は、古来神社仏閣や上層階級の手にゆだねられて来たと言ってもよかろう。しかし最近では、かなり中小都市でもそれぞれの規模にふさわしい博物館を設けて、土地の歴史を知らせる風が盛んになりつつあるのは、喜びにたえない。民芸館など最も大衆に親しいはずの施設も、方々にできつつある。日本独特のよさがも、土地土地のローカルな味わいが、本当に見直されて来た証拠である。
今後名古屋にできる博物館は、ぜひそうした意義の夢を盛ったものであってほしい(2)

1969年に吉田の博物館論が連続するのは、名古屋に博物館を設置する計画が1968年に行政内ではじまったことを受けているからかもしれない。ほかの名古屋市文化財調査委員は何か発言しているだろうか。過去に接した記憶がない。

さて、吉田の博物館論の特徴は、次の諸点にある。
第一に、史跡公園論と構造化されていることは、別に触れたとおりである。上の記述と総合すると、「遺跡─永久保存活用─史跡公園/遺物─記録保存活用─博物館」となる。第二に、設備→工夫→勉強という三段論法を用いている。設備は博物館、工夫は展示技術であり、これらによって勉強が基礎づけられることになる。ここであらかじめ明らかなように、以後は勉強すなわち教育に引き寄せられて行論されゆく。「教育の場でなければならない」の語は、力強くかつが象徴的である。続く外国例の参照は豊かである。「静的/動的」の二項図式は、昭和初期以来わが国の博物館研究で続けられてきた「死んだ博物館/生きた博物館」のバリエーションである。ステレオタイプとは言え吉田もこの構造的理解を有していたことは、博物館の論理上正しい姿であった。

その吉田の求めた博物館は、1977年に名古屋市博物館として開館する。現実はどうだったか。「常に催しものを行なって、いつも大衆を博物館に引きつけて」はいた。見せ物小屋のように。しかし、1980年の時点でも、「「さわってはいけません」と禁止するのでなく、備品を貸与して自由に研究させる」ことはなかった。「大衆と博物館との間の関係は、一層緊密である」と言えただろうか。いまはどうか知らないが、民芸のジャンルは否定していたから、「最も大衆に親しいはずの」領域は失われていた。

名古屋市博物館はそのはじまりにおいて、吉田の博物館論の水準に達していなかったと言える。それはこの博物館内外における期待や希望が、教育よりも研究に重点があったためと考えられる。そう言えば、吉田の博物館論には研究が不在であった。考古学研究者による博物館論でありながら研究が説かれないのは奇異だが、その所以についてはあらためて考えてみたい。

私事、吉田の博物館論には1970年に接していたが、今回初見に等しかった。当時私が博物館に関心がなかったためである。1990年代以降博物館を主題とするようになってからも、吉田の所論を顧みることはなかった。しかし、強い既読感があった。特に外国例を引くくだり、「第一どんな中小都市でも、まずその歴史を知らせる博物館のないところはないほどである」には、藤山一雄の博物館論(3)を想起したし、「珍しいみやげを自家に死蔵せず故郷の博物館へ寄贈することを約束して安心する例は、よく見聞きするところである。個人の収集が核をなしてでき上がった博物館もよくある」などは廣瀬鎮の『博物館は生きている(4)』的である。吉田が師事した浜田青陵の博物館論(5)、や、さらには棚橋源太郎のそれ(6)も及んでいるに違いない。廣瀬に支持されながらおこなわれた荒木実の博物館づくりも、吉田には親しく存した。吉田の博物館論はどこからきたのだろうか。

吉田亡きあと、入稿済みだった名古屋市内の遺跡を紹介する新聞連載コラムがはじまる。連載最終の100回目も、やはり、博物館で締められていた。

発見された遺物も、また決して少なくない。博物館ができれば、みな展示の機会を待つものばかりである(7)

  1. 吉田富夫著・名古屋市経済局観光課編『名古屋のおいたち─見てまわろう名古屋の文化史─』、名古屋市、1969年9月20日、137頁。
  2. 吉田富夫「埋蔵文化財のはなし─歴史のなぞとその解明─」名古屋市教育委員会事務局総務部調査企画課編『教育だより』昭和45年1月号、名古屋市教育委員会、1970年1月16日、9頁。
  3. 藤山一雄『新博物館態勢』 (東方国民文庫第23編)、満日文化協会、1940年10月20日、など。
  4. 広瀬鎮『博物館は生きている』(NHKジュニアブックス1)、日本放送出版協会、1972年10月15日。
  5. 浜田青陵『考古学』(日本児童文庫54)、アルス、1929年9月5日。
  6. 棚橋源太郎『眼に訴へる教育機関』、宝文館、1930年11月10日、など。
  7. 吉田富夫「遺跡ここかしこ おわりに」『中日新聞』市民版、1972年3月20日
2013年11月30日

吉田富夫、V・G・チャイルド、大参義一

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1971年11月21日に吉田富夫が急逝し、25日から新聞連載されたコラム「遺跡ここかしこ」を1冊に編集した『名古屋の遺跡百話(1)』が、吉田を追悼する唯一のまとまった書となった。同書の編輯と増補をおこなった大参義一は、「吉田富夫先生の先史文化研究(2)」を寄せて吉田の業績を解説、評価している。その約10年後、この文はリライトされて「吉田富夫先生の考古学(3)」になるが、このときV・G・チャイルドに関する記述が新規に加わった。

大参は冒頭近くでエピソードを披露する。

吉田先生の研究の業績について思いをめぐらす時、何時も私の頭に浮かぶのは、かのイギリスの考古学者V・ゴードン・チャイルドのことである。先生自身かって、チャイルドに傾倒している旨を私にもらされたことがあったが、この両先学の果たした学史的役割の中には共通する点が多いことを感ぜずにはいられない(4)

チャイルドの事蹟を概観したあと、次のように書く。

このように考古資料によって原始古代の文化の総合体系化をはかり、研究法を開発し、啓蒙史家としてもすぐれた働きをし、文化財の保護にも情熱をもやしたチャイルドの多面的な活躍は、研究対象の地域こそ異なっていたけれども、吉田先生が果たされた学者としての役割と通ずるものがあり、私の頭の中で葉両者がダブって浮かび上がってくるのである(5)

このあと吉田に関する記述の中心が展開され、文末近くになってふたたびチャイルドが登場する。

先生は自ら見晴台遺跡の全面的な発掘調査に意欲をもやして、健康のすぐれない晩年も、連日現場におもむいて発掘の指導にあたられた。あの温厚な人柄の中に、はげしい情熱が秘められていたわけである。チャイルドが、ファシズムにたいして、学問の立場からはげしい情熱をもやして反ばくをしたことが思いおこされる(6)

以上が、チャイルドに関説した部分である。このように見来たると大参は、吉田とチャイルドのなんらかの関係を論証しているわけではないことがわかる。吉田が反ファシズムだったことを説いてもいない。政治的言説を多くする吉田ではなかったが、たとえば「小学国語読本巻十二第三「古代の遺物」について(7)」は、吉田が反ファシズムの人ではなかったことを示している。

それは大参も、承知のことであっただろう。ならば私たちは、なぜ大参はチャイルドのことを加えたのか、と正しく問わなければならない。チャイルドは、吉田の何かのメタファーだったのではないか。「見えないことを見るように」と、大参が言っているように思えるのである。

  1. 吉田富夫・大参義一『名古屋の遺跡百話』(文化財叢書第61号)、名古屋市教育委員会、1973年11月30日、1-88頁。
  2. 大参義一「吉田富夫先生の先史文化研究」吉田富夫・大参義一、前掲書、68-72頁。
  3. 同「吉田富夫先生の考古学」名古屋市博物館編『吉田富夫コレクション』、名古屋市博物館、1982年4月29日、43-46頁。
  4. 同論文、43頁。
  5. 同論文、43頁。
  6. 同論文、46頁。
  7. 吉田富夫「小学国語読本巻十二第三「古代の遺物」について」『愛知教育』610、愛知県教育会、1938年10月1日、51-55頁。
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