2015年10月18日

天白・元屋敷遺跡二題

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志段味の自然と歴史に親しむ会の会報最新号に、天白・元屋敷遺跡に関する文章をふたつ発表しました。「天白・元屋敷遺跡の範囲」は、3月21日のシンポジウムの際、プリントとしてお配りしたものの定稿です。「川湊という物語」では、天白・元屋敷遺跡の川湊に関する諸問題について、発掘担当者の考え方の変遷や吉田富夫氏の論考などを通じて、考えてみました。どうぞご覧ください。

  • 「天白・元屋敷遺跡の範囲」志段味の自然と歴史に親しむ会世話人会編『私たちの博物館 志段味の自然と歴史を訪ねて』第67号、志段味の自然と歴史に親しむ会世話人会、2015年10月15日、15–22頁。
  • 「川湊という物語」、同書、23–28頁。
2015年2月22日

吉田富夫誕生103年を記念する

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1912年(明治45)2月22日、吉田富夫誕生。

2014年11月23日

43年前の訃報

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▲ 『中日新聞』第10594号、1971年11月23日、朝刊・8面。

2014年10月5日

犬塚康博「古墳研究の精神史─1970年代名古屋から眺める」

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近作出来。乞うご一読。

要旨 考古学研究は、この半世紀を見渡しただけでも、発掘調査の件数、出土遺物の件点数、関連図書の出版点数など、その物質性において増長していることは、あらためて言うを俟たない。それは、国家独占資本主義の反映であり、主体的には、職業考古学研究者人口の増加がこれを物語っている。では、その精神性はどうか。本稿は、名古屋の考古学における、吉田富夫、伊藤禎樹、三渡俊一郎らの古墳研究を対象にして、赤松啓介やV.G.チャイルドらの理論を参照しながら、1970年代と現代とを観望してみた。その結果、近代的地域研究から封建的郷土研究への再帰的到達が仮説されるところとなった。それは、「ブルジョア科学の観念化、神秘化、反動化の傾向」(赤松啓介)と言うことができる。グローバリズムのもとでおこなわれる、「お国自慢」と歴史修正主義とを特徴とする現状は、1930年代の再来のようである(1)

内容
1. はじめに
2. 歌謡と古墳研究
 1) 吉田富夫の場合
 2) 伊藤禎樹の場合
3. 神話と古墳研究
 1) 吉田富夫の場合
 2) 三渡俊一郎の場合
 3) 行政─職業考古学研究者の場合
4. おわりにかえて──「お国自慢」と封建的郷土研究
 1) 吉田富夫の反「お国自慢」
 2) 現在の「お国自慢」
 3) 封建的郷土研究

  1. 犬塚康博「古墳研究の精神史―1970年代名古屋から眺める」『千葉大学人文社会科学研究』第29号、千葉大学大学院人文社会科学研究科、2014年9月30日、176頁。
2014年9月21日

蛸畑遺跡〔7〕

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蛸畑遺跡の「物語」は、少なくとも次の三項から成り立っている。

  • 近世の文献に記述があること。
  • 貝が出土すること。
  • 吉田富夫が関与すること。

この構造は、蛸畑遺跡が最初ではなかった。吉田が沢観音堂貝塚址(1)として紹介したものをはじめ、類例はいくつかあるが、西志賀貝塚と御塚を以下に見よう。

西志賀遺跡については、綿神社の西方に「貝塚」と呼ぶ場所のあることが『尾張名所図会』後編に記されていて、そのことを吉田が紹介している(2)。この報告以降に西志賀貝塚の前期弥生土器研究で、吉田が考古学界の第一線に登場していったことにあきらかなように、西志賀貝塚は吉田にとって記念すべき遺跡であった。紅村弘が書いた「この名所図会に記載あることは、吉田氏の父君が見出されたものという(3)」ことも考慮すると、吉田には格別の意味を持つ遺跡であったに違いない。

御塚は、『金鱗九十九之塵』巻九十に記述があること、貝が出ること、そして吉田富夫が熱心に調べていた。これに関連して、「昭和三十九年夏、沢上中学南西隅にプールを設けたとき、大量の貝殻が出たことを、同校卒業生で桜台高校生であった岡本俊朗君(今は岡山大学で考古学専攻の学生)から聞き、もしまた将来何か工事が行なわれるようだったら知らせてほしいと頼んでおいたところ、昭和四十一年七月体育館等増設工事のこと聞き、早速六日に実査した」が、江戸時代の貝塚だったため、「私はひそかに縄文の、それも古い時期のものを期待していたのに―(4)」と、落胆を隠さない吉田であった。

このように見来たるときに、蛸畑遺跡は、吉田富夫が見た最後の夢だったと言える。その最初は、言うまでもなく、正夢として始まった西志賀貝塚であった。

そして、吉田の夢をなぞる生徒たちがいた。御塚に岡本俊朗が、蛸畑遺跡に私が。構造的であるがゆえに、吉田じしんが御塚や蛸畑遺跡の虜になったように、生徒たちにもわかりやすかったのだろう。

私は、蛸畑遺跡を踏査したのちじきに堀越町遺跡に遭遇する。この遺跡は、西志賀貝塚に近く、吉田は船人夫町貝塚(5)と呼んでいた。西志賀貝塚が所在する地の一方の字名「船人作」と酷似するこの名の地の遺跡に、吉田が西志賀貝塚の夢を投影していたとしても不思議ではない。堀越町遺跡も、吉田の夢の最後のひとつだったと思うのである。

これにて、蛸畑遺跡の連載は終了するが、連載中、蛸畑遺跡について飯尾恭之氏から教示いただく好機を得た。かつて私が、『名古屋市古代遺跡・天然記念物地図(6)』を手がかりに踏査した場所は台地上だが、飯尾氏が発見し吉田富夫に示した場所は低地だったとのことである。このことを当時のわたしは知らなかったため、同地図の指示する地点を現地に復しての作業であった。地図の誤差による誤解も含めて、「蛸畑遺跡」が人々にいかに伝えられ、理解されていったかという、いわば民族誌的な視点で行文してきたことを付記する。

  1. 吉田富夫「沢観音堂貝塚址」『名古屋の史跡と文化財』、名古屋市教育委員会、1970年3月1日、14頁。
  2. 吉田富夫「尾張国名古屋市西志賀貝塚に就いて」『考古学雑誌』第23巻第6号、日本考古学会、1933年6月5日、40頁。
  3. 名古屋市文化財調査保存委員会(吉田富夫・紅村弘)『名古屋市西志賀貝塚』(文化財叢書第19号)、名古屋市経済局貿易観光課、1958年1月3日、7頁。
  4. 吉田富夫「郷土の考古学入門(7)―中央部(東・中・熱田区)の巻(3)―」『郷土文化』第23巻第3号、名古屋郷土文化会、1969年3月、35頁。
  5. 吉田富夫「則武向貝塚・船人夫町貝塚」『名古屋の史跡と文化財』、前掲書、23-24頁。
  6. 『名古屋市古代遺跡・天然記念物地図』、名古屋市教育委員会、1968年3月31日。
2014年8月17日

蛸畑遺跡〔5〕

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蛸畑貝塚
緑区鳴海町蛸畑
『尾張志』などに、鳴海宿の東北三十丁、蛸畑の地は海岸から三十丁も遠く距つのに、海の貝殻を出すことがしるされていて、貝塚の存在を暗示する記事が見える。
現在のどこに当たるかが長年の問題であつたが。結局蛸畑の地名が古来細根の西をさすことが、正徳五年(一七一五)九月の『見取り新田畑たこ畑・ほそね・おく新田小作帳』(家蔵)の存在によつて知られ、現在もその字名で呼ばれているし、相原から川を渡つて細根へ通ずる道路の、水田から台地の畑にかかる西側の台地縁に、ハマグリ・カキ・アサリ・シジミを出すことを実見し得たので、『尾張志』等の記載は、鳴海からの方角、実は南東なのを誤つて記載したものと判断してよかろう。(吉田(1)

前回の「蛸畑」に新しい情報が加わっている。この間に吉田は、「見取り新田畑たこ畑・ほそね・おく新田小作帳」を入手し、現地踏査をおこなった。その詳細は、「緑区鳴海町蛸畑遺跡の位置(2)」に発表されている。上記は、その結果のダイジェストである。

  1. 吉田富夫「蛸畑貝塚」尾崎久弥・佐々木隆美・城戸久・市橋鐸・坪井忠彦・伊藤亮三・吉田富夫・芥子川律治・藤井制心・高木栄一郎・岡本柳英・小島広次・林董一・水野時二・桜井龍一『名古屋の史跡と文化財』、名古屋市教育委員会、1970年3月1日、18-19頁。
  2. 吉田富夫「緑区鳴海町蛸畑遺跡の位置」『名古屋考古学会会報』11号、名古屋考古学会、1969年6月1日、8頁。
2014年7月13日

蛸畑遺跡〔3〕

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『名古屋市古代遺跡・天然記念物地図』、名古屋市教育委員会、1968年3月31日。(部分)
▲ 『名古屋市古代遺跡・天然記念物地図』、名古屋市教育委員会、1968年3月31日。(部分)

1970年4月5日に、名古屋市緑区蛸畑遺跡を踏査した際のノートは、私が第1地点とした場所について「ここが地図に記載されている地点と思われるが」と書きはじめている。その地図が、『名古屋市古代遺跡・天然記念物地図(1)』である。蛸畑遺跡を示す「▲」は、前回掲示した地図の民家4棟の付近に当たる。

同図裏面には、次の説明がある。

蛸畑貝塚 緑区蛸畑
江戸時代文献に蛸畑から海の貝殻を出すと記す。細根に至る道路が蛸畑の台地に上る西側に、貝殻の散布を見るが、あるいはここであろうか。将来の精査を待つ。

吉田富夫が書いたに違いない「将来の精査を待つ」の結語に、私は動かされた。

  1. 『名古屋市古代遺跡・天然記念物地図』、名古屋市教育委員会、1968年3月31日。
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