2015年8月2日

岡本俊朗三十三回忌

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岡本俊朗さんが逝って32年。

『中日新聞』、1983年8月2日
▲ 『中日新聞』、1983年8月2日
『朝日新聞』、1983年8月2日夕刊
▲ 『朝日新聞』、1983年8月2日夕刊
『中部讀賣新聞』、1983年8月2日朝刊
▲ 『中部讀賣新聞』、1983年8月2日朝刊

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2014年11月23日

43年前の訃報

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▲ 『中日新聞』第10594号、1971年11月23日、朝刊・8面。

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2014年11月20日

湿ケ遺跡破壊!

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以下、急ぎ引用転載。詳しくはあらためて。

2014年11月20日 20時50分

新たな無届け工事が判明 名古屋・守山区の遺跡で

名古屋市守山区の天白元屋敷遺跡内で市の外郭団体「名古屋まちづくり公社」が無届けで土地を造成し、大量の土器を破壊した問題で、古墳―室町時代の土器や陶器が出土している近くの湿ケ(しけ)遺跡(同区中志段味)内でも、無届けで工事をしていたことが新たに分かった。公社が20日に会見し、謝罪した。

公社は、土地区画整理事業を行っている湿ケ遺跡内で2007年以降、排水路や道路整備のために計8カ所で地面を1~2メートルほど掘削。その際、文化財保護法で義務付けられている市教委への事前の届け出を怠っていた。

担当者が届け出が不要と思い込んだことなどが原因。既に現場のほとんどは道路舗装などを終えており、文化財の有無や破壊されたかどうかも確認できない。

無届け工事をめぐっては、天白元屋敷遺跡の不法造成が10月に本紙の報道で発覚。公社が志段味地区全体で過去の状況を調べたところ、今回の無届け工事が判明した。

(中日新聞)

それにしても、上志段味の古墳調査に往き来した名古屋市教育委員会の職員は、県道志段味田代町線を通行しなかったのだろうか。それならば、7年間であろうと、何年であろうと、気づかないことはあるかもしれない。

しかし通っていたのなら、遺跡範囲を通過しながら、あちこちでおこなわれる工事に気づかなかったのだろうか。目先の職務は果たしても、文化財保護法の精神から来した物質であるところのおのれの根拠に、一度として立ち返ることはなかったのか。

破壊事件の根源は名古屋市教育委員会にあり、と言わざるを得ない。文化財保護後進都市名古屋。


▲ 「名古屋市遺跡分布図(守山区)」、名古屋市教育委員会、1985年3月、表面(部分) 〔1-65下寺林古墳(寺林2号墳)、1-66上寺林古墳(寺林1号墳)、1-67志段味城跡、1-68天白元屋敷遺跡、1-69湿ケ遺跡〕

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2014年11月2日

天白・元屋敷遺跡の幸せ

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▲ 中志段味、吉根で配布された名古屋市教育委員会のチラシ

3年前の天白・元屋敷遺跡の破壊について、10月20日に中日新聞朝刊が報道した。CBC、NHK、メ~テレ、毎日新聞、東海テレビ、朝日新聞、テレビ朝日等がそれに続き、インターネット上のさまざまな媒体でも言及されていった。

2010年から2011年にかけておこなわれた、名古屋まちづくり公社と名古屋市中志段味特定土地区画整理組合による天白・元屋敷遺跡の大規模破壊は、埋蔵文化財の取り扱いが、単なる事務処理になったことを示した。役所と関連機関の中で、熟読されることなく書類にはんこが押され、右から左へと流れてゆく、あのありふれた光景が浮かぶ。当事者は「手続きミス」「勘違い」としか言わないが、能う限りの責任回避、自己保身の弁なのだろう。国民に開かれた文化財に関して不具不能の者たち──文字通り非国民──、国民に開かれない内向きの者たちの弁だとすればうなずけないこともない。

30年前、天白・元屋敷遺跡はどのように扱われていたか──。手許にある当時の配布物5点(1)を手がかりに見てみよう。区画整理組合が設立されていないころ、遺跡の調査は名古屋市教育委員会が直営、国庫補助金等公費でおこなっていた。1979年に発見されたばかりの、この遺跡の性格と範囲を確認するために、小規模な発掘区を設け、数次にわたって実施していた。その際には見学会をおこない、出土遺物の展示もした。当時はあたりまえの光景だが、いまからすれば、とてもていねいに映る。天白・元屋敷遺跡は、まだ幸せだった。

名古屋市教育委員会は、なぜこの遺跡の範囲や実態を確認していたのか。「現在検討が進められている区画整理事業とは、直接の関係はありません(2)」として、間接の関係を暗示していた。すなわち、区画整理で破壊される遺跡の調査費用を、将来設立される区画整理組合に負担させるために必要な基礎データを集めていたのである。

このころは、調査に関するチラシがよく配布されていた。その文面では、「地元の皆様(3)」「皆様方(4)」「土地所有者のみなさん(5)」「周辺にお住まいの方々をはじめ、皆様(6)」すなわち近未来の区画整理組合組合員、発掘調査費用の負担者に対し、慇懃な呼びかけがおこなわれていたが、これはすべて、発掘調査費用を負担する原因者へのお作法、あるいはお便法だったのだ。

1995年12月に、名古屋市中志段味特定土地区画整理組合の設立認可が公告された。それ以降の詳細を知らないが、大規模破壊後付け焼き刃の「遺物回収作業」のときも、現在の発掘調査においても、その成果は地元および市民に公開されていない。かつては、報告書を刊行し、なおかつ「スライド、出土品等を使用(7)」する報告会もおこなっていた。事業者が民間すなわち区画整理組合だから、報告会を開催できないということはない。名古屋市吉根特定土地区画整理組合は、名古屋市教育委員会とともに現地説明会を開催していた(8)。中志段味でやれない理由はない。やらないだけである。それに対して教育委員会は、なぜ指導しない?遺跡調査の金を出させるまでは地元に対しベタベタに媚びて、金を出させたらもうそれっきりなのか?そして自分たちは、金目目当ての墓暴き、墓泥棒さながら古墳を掘り散らかし弄んでのお楽しみか?自分たちが、「生き残り」とか称してプレイヤーになってしまっては、民間に対して指導できるはずもない。

役所と関係機関における、単なる事務手続きとして埋蔵文化財が取り扱われ、ミスがあってもスルーされて、天白・元屋敷遺跡は大規模破壊された。破壊の事後処理も、始末書と「遺物回収作業」という内向きに終始した。役所と関係機関の外部には、3年間何も知らされなかった。わたくしを含めたごくごく少数の人間が、自力でその事実を知り、外に対して発信していた以外は──。

1980年代後半のバブル景気のころ、発掘調査は工期の一部に定着し、考古学とは別の相貌を得ていった。そしていま、発掘調査は単なる事務手続きと化した。不幸せな天白・元屋敷遺跡が、そう教えている。

  1. 「遺跡発掘調査概要報告会開催のお知らせ」、名古屋市教育委員会、(1985年4月13日配布)、「発掘調査開始のお知らせ」、名古屋市教育委員会、(1985年12月配布)、「─遺跡発掘調査概要報告会のお知らせ─」、名古屋市教育委員会、(1986年6月1日までに配布)、「天白・元屋敷遺跡第3次発掘調査開始のお知らせ」、名古屋市教育委員会。1995年、「現地説明会開催のお知らせ」、名古屋市教育委員会・名古屋市吉根特定土地区画整理組合、(1985年10月22日配布)。PDFファイル参照。
  2. 「発掘調査開始のお知らせ」。
  3. 「遺跡発掘調査概要報告会開催のお知らせ。
  4. 同チラシ。
  5. 「発掘調査開始のお知らせ」。
  6. 「天白・元屋敷遺跡第3次発掘調査開始のお知らせ」。
  7. 「─遺跡発掘調査概要報告会のお知らせ─」。
  8. 「現地説明会開催のお知らせ」。
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2014年10月21日

天白・元屋敷遺跡破壊事件の根源は名古屋市教育委員会にあり

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昨日、中日新聞が最初に報道した天白・元屋敷遺跡破壊事件は、公社の問題に焦点化されているが、その根源は、40年以上続く名古屋市教育委員会の文化財行政の構造的欠陥にある。

文化財保護の断絶は、天白・元屋敷遺跡破壊事件が明証する。天白・元屋敷遺跡は、上志段味に西接する中志段味の遺跡で、1979年度の名古屋市教育委員会の遺跡分布調査で初めて確認され、同委員会による発掘調査が数度にわたっておこなわれてきた。区画整理事業に際しては、「埋立保存」する旨同委員会が強弁していた遺跡である。その遺跡が、2010年から翌年にかけて広範囲にわたり破壊された。「埋立保存」の強弁をも裏切る、地山から根こそぎの破壊に見舞われたのである。

事件は、2011年6月13日付の「野田農場ホームページ/農場だより」に「土器」の記事と写真が投稿されて公然となった。筆者は、これをコメント付きリツイートしたのち、同月15日に現地で遺物を実見し撮影する。そして、13日の野田農場のツイートにリプライするとともに、遺物の写真10点をFlickrに投稿した。以後、事業主体と名古屋市教育委員会とのあいだで折衝がはじまり、前代未聞の「遺物回収作業」ほかの調査にいたる。

天白・元屋敷遺跡は、『志段味古墳群』刊行にいたるまでの数年間、数多関係者が繁く過ぎったであろう地区にある。しかもそれは、上志段味の古墳群と歴史社会的に密接な関係が予想されもしてきた。さかのぼれば、名古屋市教育委員会史上初となった遺跡分布調査の最初のひとつが守山区だったのは、志段味・吉根地区の特定土地区画整理事業を想定していたからである。その象徴的な成果が、この遺跡―最初の名称は中志段味A遺跡―の発見であった。それを、根こそぎ破壊したのは、文化財保護の断絶、否定、破壊と言わずして何と言おう。畢竟、『志段味古墳群』は、天白・元屋敷遺跡破壊と一対だったのである(1)

『歴史の里』のおためごかし、天白・元屋敷遺跡破壊事件という現実──。

たとえば、『志段味古墳群』と天白・元屋敷遺跡破壊とが一対であったことが、断絶されたサンプルであることを「歴史の里」に強いるであろう。これが初めてではない。今日の見晴台遺跡の端緒たる1971年の史跡公園計画もまた、1972年の桜本町遺跡破壊、1974年の六本松遺跡破壊と一体であった。文化財保護の厚遇/冷遇という南北問題が、隣接して発生した共通も指摘しておこう。見晴台と「歴史の里」の意味は、冒頭に記した「調査され破壊され尽くした累々たる遺跡」、ひとこと「断絶」に還元されるのである(2)

  1. 犬塚康博「経験と歴史の断絶―『志段味古墳群』の検討」『千葉大学人文社会科学研究』第28号、千葉大学大学院人文社会科学研究科、2014年3月30日、2232頁。
  2. 同論文、233-234頁。
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2014年9月14日

蛸畑遺跡〔6〕

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蛸畑貝塚(緑区)
「尾張志」などに、鳴海宿の東北三十丁(約三・三キロ)にある蛸(たこ)畑の地は、海岸から遠くへだつのに海の貝殻を出すことを記すのは、貝塚の存在を暗示するようである。「尾張名所図会」には「章魚(たこ)畠の古覧」と題して、大だこが芋畑に上がり、芋を食べる図まで入れて、話題の興味を一層引き立てている。
それはさておき、この地、その記事に迷わされていっこうにわからなかったが、蛸畑の地名は、実は鳴海の南東、細根の手前にあり、相原から扇川を渡って、細根へ通ずる道路が、低地の水田から、台地の畑へかかる西側の台地縁に、ハマグリ・カキ・アサリ・シジミを出すことを発見したから、ここを指すのであろう。学史的な遺跡だから、大切にしたい(1)

「学史的な遺跡だから、大切にしたい」。ここに自動車道が通過することを吉田は知っていて、このように書いたのだろうか。検見塚にそうしたように。しかし、吉田の希望に反して、蛸畑遺跡は滅失した(2)

ところで、「名古屋における発見と調査のあゆみ」と副題して開催した1988年の名古屋市博物館特別展「考古学の風景」は、蛸畑遺跡をとりあげなかった。遅きに失したが、26年後のこの「考古学の風景」で明記する。

  1. 吉田富夫「遺跡ここかしこ/蛸畑貝塚(緑区)」『中日新聞』第10662号、1972年1月31日、7面。
  2. 名古屋市教育委員会『名古屋市遺跡地図(緑区)』、1979年3月。
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2013年12月19日

「古墳発掘体験」に反対する

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『中日新聞』第25575号、中日新聞社、2013年12月17日、1面。
▲ 「市民も古墳発掘体験/守山で全国初 整備計画」『中日新聞』第25575号、中日新聞社、2013年12月17日、1面。

12月17日付中日新聞朝刊1面に「市民も古墳発掘体験/守山で全国初 整備計画」の文字が躍った。

片言隻句をとらえての、さまざまな批判が可能である。それらはすべて正しいだろう。悟性的に。どなたかの全面展開を切望する。

では理性的にはどうか。「歴史からなにも学ばない人たちによる、歴史からなにも学ばない人たちの再生産」。そう直観的に仮説し、後考する。それにしても、赤塚次郎以降愛知県のポストモダン考古学の徒花のようで、痛く、ウザイ。

同記事を受けて取り急ぎおこなったツイートは、古い方から順に、以下のとおり。

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