2017年10月1日

〔ご案内〕講演「天白・元屋敷遺跡の考古地理学と「志段味城」」

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天白・元屋敷遺跡周辺図
▲ 天白・元屋敷遺跡周辺図

次の催しでしゃべります。よろしければどうぞ。

志段味の自然と歴史に親しむ会11月例会

テーマ 天白・元屋敷遺跡の考古地理学と「志段味城」

講師 犬塚康博(志段味の自然と歴史に親しむ会世話人)

日時 11月25日(土)午後2時~4時

会場 名古屋市守山生涯学習センター視聴覚室

要旨 3月に開催した天白・元屋敷遺跡の第3回シンポジウムで、講師はコメンテーターをつとめましたが、時間の関係で用意したことのすべてをお話しできませんでした。そこで、発表できなかった中世の部分、そして発表した古代の部分もふくめ、あらためてじっくりとお話しします。

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2015年10月18日

天白・元屋敷遺跡二題

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志段味の自然と歴史に親しむ会の会報最新号に、天白・元屋敷遺跡に関する文章をふたつ発表しました。「天白・元屋敷遺跡の範囲」は、3月21日のシンポジウムの際、プリントとしてお配りしたものの定稿です。「川湊という物語」では、天白・元屋敷遺跡の川湊に関する諸問題について、発掘担当者の考え方の変遷や吉田富夫氏の論考などを通じて、考えてみました。どうぞご覧ください。

  • 「天白・元屋敷遺跡の範囲」志段味の自然と歴史に親しむ会世話人会編『私たちの博物館 志段味の自然と歴史を訪ねて』第67号、志段味の自然と歴史に親しむ会世話人会、2015年10月15日、15–22頁。
  • 「川湊という物語」、同書、23–28頁。
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2015年7月5日

「天白・元屋敷遺跡の未来」

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発掘調査が終了し、発掘会社も撤収した翌日の7月2日(木)、天白・元屋敷遺跡の破壊がはじまりました。保存と活用を求める声を無視して、丁寧に丁寧に検出されてきた、中世城館や古代大溝、古代の住居跡群など貴重な遺構がどんどん壊されてゆきます。言葉を失います。

過日、「志段味の遺跡をたずねて」と題して講演することがありました。その際、「天白・元屋敷遺跡の未来」と立項して、私たちが目の当たりにする遺跡破壊とは何なのかについて触れました。その部分の講演原稿を、以下に再録します。

天白・元屋敷遺跡のお話をしてまいりました。最初に申し上げましたように、この遺跡は区画整理のまっただなかにあります。地盤改良で不法に壊されました。そしていまおこなわれている発掘調査は、調整池をつくるための調査です。つまり、調査が済めば、また根こそぎ破壊されてしまうわけです。遺跡のすべてが失われるわけではありませんが、主要な遺構、つまり中世城館や大溝はなくなってしまいます。これをどうにかして守りたいと思いますが、市も教育委員会も区画整理組合も、公社もまったく熱心ではありません。

私たちは、つい最近、イスラム国、イスラミクステートが博物館の陳列品や遺跡を破壊するのをニュースで見聞きしました。少し前、2001年には、タリバンがバーミヤンの石仏を破壊したニュースに接しました。わたしたち日本人も。これと何ら変わらないことを、日々おこなっているのかもしれないと思えてきます。わが国の、わが民族の、貴重な歴史遺産を、この手で破壊しているわけです。

日本人は、彼らのことをあれこれ言える立場にないでしょう。イスラミクステートやタリバンは、イスラムの信仰を背景としていました。明治維新のときの廃仏毀釈も、政治体制の変化に反応した、神道と仏教という宗教にかかわる動きでした。現在のわが国の遺跡破壊は、信仰ではなく、ただ単に金儲け、拝金です。遺跡の未来は、暗黒と言わざるをえません。そう言えば、金儲けのために戦争をしようという動きもただいま急です。しかし、遺跡の保護、文化財と人のコミュニケーションの幸福なあるべきすがたは、平和な世界のなかにしかあり得ません。イスラミクステートもタリバンも戦時下です。明治維新は内戦状態でした。いまは、復元だ木造再建だとにぎやかな名古屋城ですが、天守閣も御殿も、日米のおろかな戦争指導者とそれを支えた両国民のせいで、失われてしまったことを忘れてはならないと思います。でなければ、きっと繰りかえすでしょう。

長くなりました。以上です。ご静聴、ありがとうございました(1)

  1. 「志段味の遺跡をたずねて」の「6.天白・元屋敷遺跡の未来」講演原稿。2015年6月10日。
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2015年5月31日

明治44年の天白・元屋敷遺跡

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明治44年の地図
▲ 明治44年の地図

今回は、明治44年(1911)の地図(1)で、天白・元屋敷遺跡の一帯を見てみよう。

低地に神社の記号があり、その西方に広葉樹林が見られる。神社の北東一帯は、白抜きで描かれた広い畑地となっている。ふたつの道が段丘上から続き、庄内川堤防のきわで合流している。

この図を都市計画基本図(2)に重ねると、まず、神社は熊野権現の位置に等しく、広葉樹の記号があるため社叢を有していたことがわかる。西方の広葉樹林は天王の位置に重なるが、神社の記号がないところから、このときすでに社地ではなくなっていたものと思われる。広い畑地は、天白・元屋敷遺跡の微高地とほぼ重なる。これは南東まで拡がっており、びぎゃあてんとちゃぱたに想定した微高地に接触してもいる。広葉樹林もまた微高地であり、江戸時代の集落があった場所の一部とみて差し支えない。

多少問題となるのが、道である。明治44年の地図と1972年の都市計画基本図は作製方法がちがうため、厳密に正しく重ならないことは言うまでもない。その上で、まず、諏訪神社からの道は、段丘上ではずれているものの、段丘下で一致するため、当時は境内を抜けて低地へおりてゆくコースだったのかもしれない。引き続き北西方向にゆく道も、こまかくずれるものの大局的には同一コースをとっている。微高地を過ぎてからは、中世城館の北辺に沿って進み堤防下にいたる。

山嶋からの道は、段丘をおりる直前で二手にわかれる。あるいは図がずれているために、段丘の下でわかれたのかもしれない。いずれにしても、都市計画図より南に三叉路がある。東側の道は、土地区画の境界を微妙に沿いながら北へゆき、中世城館の西で折れて進んだ先で、諏訪神社からの道と合流する。

道を問題にするのは、江戸時代の村絵図との関係からだが、特に山嶋から下った付近の理解は今後の検討課題である。念のために、撮影年不明(1974年以前)の空中写真と重ねると、都市計画図と重ねた際の印象を追認することができる。

  1. 『二万分一地形図名古屋近傍第七号(共二十二面)水野村』、大日本帝国陸地測量部、1911年。
  2. 「1:2,500/名古屋都市計画基本図/VII–MD 76–4/中志段味」、名古屋市、1972年、(http://scr.wagmap.jp/nagoya_tokeizu/files/PDF/S44/001_1.pdf)。
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2015年5月24日

狐塚、二ツ塚、冨士塚

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▲ 「227 春日井郡中志段味村図」(部分(1)

1792(寛政4)年の中志段味村絵図には、「狐塚」「二ッ塚」「冨士塚」という、「塚」の文字をもつ三つの字名が見える。このうち、二ツ塚と冨士塚は現在も使われている。狐塚の字名は残っていなかったが、前回の記事「中志段味・湿ケ遺跡の狐塚」に書いたように、実際に塚があり、地元の人のあいだで語り継がれた内容は、古墳の可能性を示唆していた。二ッ塚、冨士塚も、狐塚同様のものだったのではないだろうか。

この地域の古墳は、段丘の末端、縁辺に築かれる印象がある。寺林古墳群もそうであった。しかし、上志段味の勝手塚古墳、山の田古墳、塚本古墳などのように、段丘上の平坦面に築かれた古墳がないわけではない。中志段味の段丘上平坦面には湿ケ遺跡があるが、古墳および古墳群の展開を考えるべきであろう。そうでなければ、古墳、古墳群があったとしても、闇から闇へと葬り去られるばかりである(2)

  1. 「227 春日井郡中志段味村図」『守山の遺跡と遺物 部門展「身近なまちの考古学―守山の遺跡と遺物」展示図録』、名古屋市博物館、1984年1月28日、66頁。
  2. 湿ケ遺跡破壊!
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2015年5月17日

中志段味・湿ケ遺跡の狐塚

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「中志段味B遺跡周辺遺跡等分布図 」
▲ 「中志段味B遺跡周辺遺跡等分布図(1)」(部分)

狐塚は、大字中志段味湿ケ2013番地。

▼野田一三さんの奥さんが、1957年頃にこの土地を購入した際、前所有者が10年程「地租」を滞納していた事が解かり、不審に思って調べられた。
▼それによると、昔「狐塚」と呼ばれたとても大きな塚があって、上志段味の方の人が子供を戒める時に「狐塚に捨てるぞ」と言ったように、昼中でもうっそうとした森だったという。
▼明治年間、県道多治見線の拡張時に、この塚を崩して軌道の盛土にした。この時、「土器や刀や槍(鉄でできていたものは錆びていた)」が沢山出土した。地元では、これは墓ではなく、小牧山の戦の時、武士を棄て百姓になった人達が、武器を隠した場所と考えていた。その後、軌道から外れた部分の土地を字の所有とし、青年会が耕作権を持っていた。そして、ここでお日待ちやその他の祭をしたという。
▼戦後、青年会が実質的に機能を停止した後は、個人が所有?又は借用?していたらしい。
▼出土品は、諏訪神社の社務所にあると聞いていたので調べてみたがそれらしいものは無かったとの事。
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▼江戸時代、1792(寛政4)年の村絵図(財団法人徳川黎明会蔵)には、「狐塚」という字名が見られる。現在はない。
▼1888(明治21)年の「土地整理図」によれば、字湿ケ2013–1番地と2013–2番地にかけて、不整円形の区画が見られる。県道多治見線の軌道予定線が引かれており、破壊直前の図面と思われる。
▼「まず、湿ケの塚は、県道多治見線にかかったため、明治年間に壊されている。その際出土した土器と刀の鍔を、地元の青年団が保管したが、紛失してしまったという(野田実さんの話による)。」(岡本正貴1983 「守山区の古墳」)

【参考文献】
○岡本正貴1983 「守山の古墳」
(『もりやま』第2号 守山郷土史研究会(2)

  1. 『志段味の歴史を見て歩こう!』、志段味の自然と歴史に親しむ会、1984年、13頁。
  2. 同書、12頁。
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2015年5月10日

天白・元屋敷遺跡の「びぎゃあてん」

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▲ びぎゃあてんのマウンド(赤色▲)撮影方向。数字は写真番号と同じ。

連載記事「天白・元屋敷遺跡の範囲」では、名古屋市守山区中志段味字東海道の西半にあたる「びぎゃあてん(弁財天)」について何度か触れた。そこでは、地図と空中写真による検証であったが、若干の地上写真が見出されたため紹介しておきたい。

写真は、耕作地のなかにあった土の高まり(マウンド、写真赤色▲)を多方向から撮影したもので、1985–1986年冬の記録である。このマウンドの性格は不明だが、状況から人工の構築物であることは明らかで、「塚」の可能性を考慮して撮影した。当時、この付近がびぎゃあてんと呼ばれることを知らず、「天白・元屋敷遺跡の範囲」で考察したような認識に到っていない段階での観察のため、マウンド周囲への配慮はおこなわれていない。しかし、偶然おさめられた周囲の景色に、びぎゃあてんのようすをかいま見ることができる。注意されたことを、以下に記す。

写真1:マウンドを南方から見る。撮影場所側の水田に比べて、マウンドの向こうが若干高く荒れ地、畑になっている。左の草むらの奥に字東海道の塚と字宮浦の塚があり、左後方に「うじがみやぶ」のクロガネモチの巨木が見える。

写真2:マウンドを南東から見る。マウンドの左側が水田、右側が畑になっている。左後方に字宮浦の微高地が見える。

写真3:マウンドを東から見る。マウンドの左側が水田、右側が畑になっている。左後方の建物は守山高校。

写真4:マウンドを北東から見る。畑の向こう(南)とこちら(北)が水田となっていて、びぎゃあてんの土地利用は入り組んでいた。正面遠方の建物は守山高校。

写真5:マウンドを北から見る。マウンドのむこう(南)は水田だが、さらにそのむこうは耕起された畝が見え、畑のようである。正面に鉄塔がみえる。

写真6:マウンド付近から南東、字寺林の方面を見る。

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