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2015年9月20日

「名古屋市における埋蔵文化財発掘調査体制の委託「合理化」に反対する闘いについて」(2)

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「名古屋市における埋蔵文化財発掘調査体制の委託「合理化」に反対する闘いについて」(連載2回目
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2015年9月13日

「名古屋市における埋蔵文化財発掘調査体制の委託「合理化」に反対する闘いについて」

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▲ 「名古屋市における埋蔵文化財発掘調査体制の委託「合理化」に反対する闘いについて」(新ウィンドウまたはタブで開く

名古屋市に埋蔵文化財センターをつくる計画が、1986年度予算要求で提起されたのは、いまから30年前、1985年秋のこと。埋蔵文化財の調査体制を、直営から第三セクター方式に変えるこの計画は、費用の原因者負担が拡大すること、調査の責任があいまいになること、職員の労働条件の悪化など、問題をはらむものであった、反対運動がおこなわれ、計画は撤回された。

1986年、その成果を全国の関係者に紹介するために、「名古屋市における埋蔵文化財発掘調査体制の委託「合理化」に反対する闘いについて」と題する原稿を用意し、『考古学研究』誌に投稿した。考古学研究会編集委員会とのやりとりがあったのち、掲載にはいたらなかった。

その未発表原稿を、数回にわたり連載する。筆者は、「志段味の自然と文化財を考える連絡会(準備会)」で、志段味の自然と歴史に親しむ会、名古屋歴史科学研究会、愛知県歴史教育者協議会、文化財保存全国協議会、自治労名古屋市職員労働組合教育委員会事務局支部の5団体で構成されている。犬塚が草稿をなし、全体の協議に付した結果のものである。

2015年6月21日

なにこれ、歴史の里?

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▲ 『朝日新聞』、1969年5月20日(部分、一部改変、画像クリックで別枠オープン。)※大きな画像

古い新聞切り抜きを見ていたところ、「古墳群に大娯楽施設」の文字の踊る記事(1)が視野に飛び込んできた。ちょうど、「上志段味の古墳群に「歴史の里」という娯楽施設をつくるということもあって(2)」と講演したところであり、余計に印象深く、紹介することにした次第。

市長のコメント、「古墳だけでは人が集まりにくいので、施設をつくるようにした」は既視感がある。歴史の里も集客大前提の施設(ハードウェア)であり、さらに事業(ソフトウェア)も企てられる。基本的には、この市長と同じ思想「古墳だけでは人が集まりにくい」のあることが透けて見える。

「このままほうっておくより、多くの人に見てもらった方が文化財保護の関心も強まるのではないか」とは、皮肉であった。放っておかずに大娯楽施設計画をたてたら、文化財保護運動が起きて、関心が強まったからである。この発想は、意識を高めるために弾圧するというのに等しい。

それはさて措き、放っておいたのは誰かで、同市の文化財保護行政の怠慢であろう。市長としての自己反省がここにはない。歴史の里も、これと基本的に変わらない。放っておかずに歴史の里を作り、文化財保護の関心を強める、というコースである。この場合は、弾圧ではなく、生かす権力となる。

しかし、集客主義、観客至上主義は、演者を酷使する。サーカスなら動物を、歴史の里なら古墳を。視野狭窄的に、近視眼的に、刹那的に、いまこのときのためだけに消尽しようとする。上意下達、自己中心の官僚的な文化財保護は、葬送されてしかるべきである。

「原形保存か観光か」の設問はいかに。歴史の里では、原形保存よりも原形破壊が志向されている。志段味大塚古墳の復元造成然り、東大久手古墳の発掘体験然り。そして、観光である。歴史の里は、「原形保存か観光か」ではなく「原形破壊も観光も」というポストモダン戦略が敷かれていることになる。

記事は、あらためて言うまでもなく、高松市にある国指定史跡石清尾山古墳群が、県、市、民間による娯楽施設開発により危機的状況を迎えていた問題をあつかったもの。石清尾山古墳群守る会が結成されて、全国的な保存運動が展開され、古墳群の破壊はまぬかれ、現在は古墳群を活かした高松市峰山公園が経営されている。ただしそれは、歴史の里のように、古墳群を酷使しはしない。諸施設とは棲み分けられて、しずかに「永遠」の眠りに就いている。

  1. 「史跡 原形保存か観光か/古墳群に大娯楽施設/高松市石清尾山/文化人らは非難の声」『朝日新聞』、1969年5月20日、14面。
  2. 「志段味の遺跡をたずねて」、2015年6月10日。
2015年5月3日

続・「名古屋城石垣 古墳の石転用か」異論

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「㉞刻印石」
▲ 「㉞刻印石」(部分)

先の正編で、次のように書いた。

さらに学芸員の言う、「今後、古墳周辺で刻印石が見つかれば、名古屋城への転用を証明できる」は倒錯である。東谷山で刻印石が見つかっても、名古屋城への転用は直接に証明することはできない(1)

以下は、証明できないことの証明である。

刻印石は、名古屋市中区の紫川遺跡の発掘調査で見つかっている。これを出品した展覧会図録は、写真とともに次のように書いた。

㉞刻印石
江戸時代の城下町に流れていた紫川(水路)の護岸の敷石として使われていたもので、名古屋城の石垣に見える刻印に酷似した印が刻まれている。築城時代の残石が利用されたものか。(現中区大須一丁目出土(2)

「築城時代の残石が利用されたものか」とは、疑問形で書く通りにこれは想像であり、刻印石が名古屋城以外で知られていなかった当時の現状を背景に、「城下町・名古屋」という展覧会タイトルに寄せて、名古屋城への想像力を誘ったものと考えられる。このキャプションの執筆者は不明だが、展覧会の主担当は岸雅裕氏であり、厳しい史料批判で知られる研究者であったから、逸脱はしていないとみなしてよい。

事実は、刻印石が名古屋城と紫川遺跡で確認されているということである。展覧会が開催された1987年以後の、発見例があるかもしれない。いずれにしても、「今後、古墳周辺で刻印石が見つかれば、名古屋城への転用を証明できる」というのは明白な虚偽で、名古屋城または紫川への転用が想念される程度なのである。厳密には、前回書いた次のとおりである。

論理的には、名古屋城石垣の石に東谷山の古墳の石であることを証明するものがなければならない。つまり、たとえば楔痕を境にして分かれてしまった石の片方が東谷山に、もう一方が名古屋城にあるような接合資料の確認こそが、明々白々な証拠となる。石の目が接合する場合も含まれるだろう(3)

なお、この刻印石は名古屋市博物館に蔵されている。

  1. 「名古屋城石垣 古墳の石転用か」異論
  2. 名古屋市博物館編『開館10周年記念特別展 城下町・名古屋 江戸時代の町と人 一九八七・九・二十六~十一・一』、名古屋市博物館、1987年9月25日、21頁。
  3. 「名古屋城石垣 古墳の石転用か」異論
2015年4月19日

「名古屋城石垣 古墳の石転用か」異論

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▲ 「第2図 東禅寺第2号墳構造図(1)」(部分)

4月15日、読売新聞(YOMIURI ONLINE)が配信した「名古屋城石垣 古墳の石転用か」について少々。他社の記事があるかもしれないが、取り急ぎこれで。

東谷山の古墳の石室に使用されていた石が、名古屋城築城の際に転用されたという物語は、事実かどうか別として、遅くとも大正の頃には知られていた。

里老云ふ、往時名古屋城を築くに方り、此の地方より石垣使用の岩石を給せり、其の時此等の塚を多くを発掘して其の石槨の岩石を運べり、此れより塚に完全なるもの無しと、一帯の古墳は皆之れを発かれ、槨蓋、及槨側岩の良材は殆んど之れを失ひたり(2)

東谷山ではないが、名古屋市守山区下志段味の東禅寺第2号墳の発掘調査では、横穴式石室の両側の柱石に楔の跡が確認され、次のように報告されてもいる。

後世における石室石材の略取であるが、西柱石は現存する先端部と中央部に楔を水平にうちんこで切りだしをはかった痕跡をのこし、相対していたであろう東の柱石は床面に楔痕のある基部をのこすのみである(3)

ここでは、石材略取の理由にまでは踏み込んでいない。当然であろう。この調査からは証明できないためで、考古学の実証主義が守られたかっこうとなっている。もちろん調査者が、『東春日井郡誌』を知らなかったわけはなく、知識、教養として上の報告の背景にあったことは疑い得ない。

以上は、取り急ぎアクセスできた事例にすぎず、このほかにも多くあるであろう。なぜなら、古墳の石の城の石垣への転用は、フィクションも含めて封建時代、封建遺制の時代の、恰好の「物語」あるいは「ジャンル」としてあるからである。ハイカルチャーの裾野を形成する、サブカルチャーと言い得る。

それは措いて、このような先行の事例がありながら、先行とさほど変わりのないことを、あたかもこの記事のもととなった調査や調査者をもって始まりであるかのように、この記事は報道する。楔の痕跡の大きさに関する時代観は、先行に対する新規性と言えるが、この記事が扱う中心にはなく、また「12㎝以上=慶長期」と「名古屋城」とのあいだには論理の溝があり、状況証拠の域をでない。

さらに学芸員の言う、「今後、古墳周辺で刻印石が見つかれば、名古屋城への転用を証明できる」は倒錯である。東谷山で刻印石が見つかっても、名古屋城への転用は直接に証明することはできない。論理的には、名古屋城石垣の石に東谷山の古墳の石であることを証明するものがなければならない。つまり、たとえば楔痕を境にして分かれてしまった石の片方が東谷山に、もう一方が名古屋城にあるような接合資料の確認こそが、明々白々な証拠となる。石の目が接合する場合も含まれるだろう。

前近代的、郷土的物語が、論理性を欠如したままこのようなかたちで21世紀に露出することは異様であり、ただ単に稚拙なだけかもしれないが、一種の歴史修正主義を感じざるを得ない。「歴史の里」の歴史修正主義については別稿(4)で触れたが、名古屋城もまた罹患していることを知るのである。

先行する調査、研究、人、すべてに謙虚であるように。

以下は、記事の転載。写真は省略した。

名古屋城石垣 古墳の石転用か

名古屋城の石垣に、名古屋市守山区内の古墳の石が転用された可能性が、同市名古屋城総合事務所と市教委の調査で明らかになった。石室の石に近世になって開けられた「矢穴」や、クサビを打ち込んで割られた「矢穴跡」が発見されたためで、総合事務所学芸員の市沢泰峰さんは「このようにして切り出された石の用途は城郭の石垣しか考えられない」としている。

発見場所は名古屋城の北東約15キロの東谷山(とうごくさん)古墳群。昨年までの調査で、崩落し露出した数か所の円墳跡から、1列に並んだ矢穴(長さ12~15センチ)や、矢穴跡のある石が見つかった。種類は花こう岩やせん緑岩で、同城でも数多く使われている。

同城の石垣は1610年(慶長15年)、徳川家康の命令で加藤清正、黒田長政ら西国大名による天下普請で築かれた。高さは天守閣の建つ天守台が約20メートル、その他の石垣も5~13メートル、総延長は約8キロに及ぶ。石は各大名が自前で調達し、採石地は小牧市岩崎山や三河湾沿岸、岐阜県海津市の養老山系、三重県尾鷲市周辺などに広がっている。

古墳から転用したとの記録はないが、同古墳群の周辺で、大規模な石垣造成は名古屋城と犬山城(犬山市)だけ。市沢さんは「犬山城は木曽川沿岸の石材が使われ、可能性が残るのは名古屋城」と指摘している。

大名は自分の石である証拠に、採石地で独自の文様を刻んだ例があり、市沢さんは「今後、古墳周辺で刻印石が見つかれば、名古屋城への転用を証明できる」と期待を寄せる。兵庫県姫路市の姫路城などでは、古墳の石棺、石材の石垣への転用が確認されている。

城郭に詳しい三浦正幸・広島大学教授(文化財学)の話「江戸時代、古墳からの転用は特別なことではない。石を割るなどして集めたのは城郭の石垣用ぐらいだ。矢穴は時代が下るほど小さくなり、長さ12センチ以上なら名古屋城が築城された慶長期と考えられる」
2015年04月15日 Copyright © The Yomiuri Shimbun

  1. 杉崎章・宮石宗弘・立松宏・伊藤敬行「名古屋市守山区東禅寺第2号墳」『東名高速道路関係遺跡第1次第2次調査概報』、愛知県教育委員会、1965年、6頁。
  2. 『東春日井郡誌』、ブックショップ「マイタウン」、1987年、1075頁(原本:東春日井郡役所編、1923年)。
  3. 杉崎章・宮石宗弘・立松宏・伊藤敬行、前掲論文、7頁。
  4. 犬塚康博「経験と歴史の断絶――『志段味古墳群』の検討」千葉大学大学院人文社会科学研究科編『千葉大学人文社会科学研究』第28号、千葉大学大学院人文社会科学研究科、2014年3月30日、228-236頁、参照。
2015年3月29日

犬塚康博「朝日遺跡の精神史」

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新しい論文、「朝日遺跡の精神史」千葉大学大学院人文社会科学研究科編『千葉大学人文社会科学研究』第30号、千葉大学大学院人文社会科学研究科、2015年3月30日、178–187頁、を発表しました。

要旨 愛知県清須市の朝日遺跡は、1968年の貝殻山貝塚と検見塚の愛知県史跡指定、1971年の大規模破壊–保存運動–貝殻山貝塚の国史跡指定、以後長期にわたる発掘調査を経て、2012年に出土品の国重要文化財指定を見た。この遺跡をめぐって、人びとは何を欲望したのか。遺跡名の変遷と、それにかかわる言説をとおして、この問題を検討した。特に1971年の大規模破壊と保存運動で、人びとの観念は、「貝塚」から「遺跡」への転換を果たし、「群」ならびにその論理的必然たる「全面」を獲得する。これにしたがい、遺跡の全面保存が叫ばれたが、一部の国史跡指定に結果した。保存運動の終焉によって、「全面」は保存から調査へと、自己実現の場を移してゆく。調査の「全面」は、行政–職業研究者の占有するところとなり、今日を迎えている。これを自賛する政治が、出土品の国重要文化財指定であった。では、「保存」はいかに。本稿は、この課題を爾後へ提出した。(1)

内容
1. はじめに
2. 朝日遺跡の名称
1) 朝日貝塚、朝日貝塚群
2) 朝日遺跡群
3. 「朝日遺跡群」の検討
1) 前史
2) 後史
4. 「朝日遺跡」の検討
1) 文化的連続
2) 政治的断絶
5. おわりに

  1. 犬塚康博「朝日遺跡の精神史」千葉大学大学院人文社会科学研究科編『千葉大学人文社会科学研究』第30号、千葉大学大学院人文社会科学研究科、2015年3月30日、177頁。
2015年1月11日

天白・元屋敷遺跡の範囲(3)

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「中志段味の地名調べ」(部分)
▲ 「中志段味の地名調べ」(部分)

前回は、地形、地名から考察した。今回は、水路の検討から進める。

(6)中志段味低地のおもな水利は、北方、野添川からの取水と、東・南方、段丘崖の湧水とに負っている。字東海道周辺には、野添川からの「さんたんだみぞ(三反田溝)」「だまみぞ(玉溝)」が東西方向にながれ、両水路を南北につなぐ「なかみぞ(中溝)」が3条見られる。それぞれ仮に、東のなかみぞ、中のなかみぞ、西のなかみぞと呼んで見てゆくと、東のなかみぞは構造がしっかりしており、字一本木と字東海道との字界と重なる。西のなかみぞも、字東海道と字宮浦との字界であり、びぎゃあてんとちゃばたの西側を流れる。中のなかみぞは、びぎゃあてんとちゃばたの東側を流れる。西と中のなかみぞは、びぎゃあてんとちゃばたの東西両側を流れており、もとあった微高地に沿っていたものと考えられる。なお、中のなかみぞの途中で、2条ほど短い水路が西側に派生している。おそらくびぎゃあてんやちゃばたの微高地の土を削り取り水田化したのち、導水のために新設さた水路と見られ、びぎゃあてんやちゃばたの旧状とその開発のようすが想像できる。

(7)西と中のなかみぞにはさまれた、びぎゃあてんとちゃばたの部分が微高地であった可能性が大きく浮上してきたところで、それの南と北はどこまで続いていたかが問題となる。北側は、現在、野田農場のトマトハウスやライスセンターのある畑地があり、さらに天白・元屋敷遺跡の北端に接続してゆく。

(8)南側は、北側のように明瞭ではないが、東方から「ちょうげんだみぞ(長玄田溝)」、だまみぞ、なかみぞ3条が合流して1条になった水路が、南へ蛇行する箇所に注意がゆく。ここには、「中志段味の地名調べ」の図によると、地番をもつ道路のような細い区画(①、黄色い部分)も沿っている。このような形状を描く水路や道路は、経験上地形に制約されてできたケースが多い。

(9)この図に限っても②③④がそれに該当し、字宮浦西半の微高地の東縁に沿っている。③は細長い塚状であり、④は、「みやためさのたんぼ(1)」と呼ばれる細長い異形の水田であった。

(10)以上から、①が沿う水路の北側に、微高地の存在が示唆されていると言える。そこには、「彡」状の土地区画が見え、概して他と区別されてひとまとまりを呈しているのも見て取れる。ここを、びぎゃあてんとちゃばたの微高地の南端と考えたい。

(11)大局的に見ると、字東海道(西半)の微高地は、びぎゃあてん・ちゃばたを中心にして南北に三日月形の弧を描くように認められる。これは、西側の天白・元屋敷遺跡の微高地の東端の弧線にも大略平行する。

(12)びぎゃあてん、ちゃばたの微高地が、江戸時代のころに集落だったかどうか、にわかにはわからない。考古学的な遺構・遺物が、求められるところである。字天白、字宮浦(西半)の微高地より遺存状況がよくないのは、比較的古い時期に形成された微高地が、古いゆえに改変を多く受けたためではないかと思われる。あるいは、集落の中心が字天白、字元屋敷、字宮浦(西半)にあり、びぎゃあてんそのが周縁だったため、耕地化の進行が早かったことも考えられる。

(13)これを裏付けるかのようにして、びぎゃあてん、ちゃばたの一帯は、2011年から2012年の工事で失われてしまった。さんたんだ以北は、野田農場の営農によって守られている。

(つづく)

  1. 野田義光「中志段味にあった『神官』─水野光雄さんの先祖」(連載(5)中志段味・見たり聞いたり」志段味の自然と歴史に親しむ会世話人会編『私たちの博物館 志段味の自然と歴史を訪ねて』第5号、1986年6月1日、26頁、編集室(犬塚康博)「みやためさの田んぼ」、同書、27-29頁。
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