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2016年9月1日

〔ご案内〕講演「上志段味の古墳群を考える」

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瀬戸市東谷山山頂遺跡(1983年4月)
▲ 瀬戸市東谷山山頂遺跡(1983年4月)

次の催しでしゃべります。よろしければどうぞ。

見晴台考古資料館友の会セミナ・志段味の自然と歴史に親しむ会10月例会

テーマ 「上志段味の古墳群を考える」

講師 犬塚康博(志段味の自然と歴史に親しむ会世話人)

日時 10月1日(土)午後2時~4時

会場 名古屋市守山生涯学習センター視聴覚室

要旨 名古屋市守山区上志段味では、古墳時代を通して造墓がおこなわれました。前期の大型前方後円墳を含むことから、その地域(ローカリティ)の造墓だけではない、広域(トータリティ)を背景とした造墓がおこなわれていたのではないかとして世の人の関心をひき、旧藩領程度の「国」つまり「尾張」が幻想されてもきました。

上志段味におけるローカリティとトータリティの二つの項目に関しては、これまでに、(1)二系列として、(2)トータリティにローカリティが従属する関係として、(3)トータリティ一辺倒として、理解されてきています。

今回は、一つに内在するローカリティとトータリティの二項の矛盾の運動として、この地域の古墳時代史を構造的にとらえかえしてみました。これに際して、「墓域」に注目して、方法的に東谷山山峰と東谷山西麓段丘とに分かち、それぞれの造墓集団をしてトータリティ、ローカリティがいかに表象せしめられていったかを追跡しています。その結果、ローカリティとトータリティは複雑に盛衰し、トータリティにおいて上志段味が後景化してゆく理路の一端を知ることができたことなどをお話します。

なお、このテーマ「上志段味の古墳群を考える」は、去年10月例会「長谷川佳隆氏と歴史の里」の続編になります。また、瀬戸市東谷山山頂遺跡の後期弥生土器片の紹介をします。

参考 http://shitashimu.shidami.nagoya/images/20161001.pdf

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2016年3月25日

犬塚康博「名古屋市守山区上志段味の古墳群に関する構造的考察」

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新しい論文を発表しました。どうぞご覧ください。

要旨 名古屋市守山区上志段味では、古墳時代を通して造墓がおこなわれた。前期の大型前方後円墳1基を含むことから、その地域(ローカリティ)の造墓だけではない、広域(トータリティ)のそれとして世人の感興を惹き、旧藩領程度の「国」を幻想させてきた。上志段味におけるローカリティとトータリティの二項に関する理解は、二系列として、トータリティにローカリティが従属する関係として、トータリティ一辺倒として、従来とらえられてきたが、本論は、一つに内在するローカリティとトータリティの二項の矛盾の運動として、この地域の古墳時代史を構造的にとらえかえすものである。墓域に注目し、方法的に東谷山山峰と東谷山西麓段丘とに分かち、当該造墓集団をしてトータリティ、ローカリティがいかに表象せしめられたかを追った。その結果、ローカリティとトータリティは複雑に盛衰し、トータリティにおいて上志段味が後景化してゆく理路の一端を知り得た(1)

内容
1. はじめに
2. 東谷山山峰の墓域と東谷山西麓段丘の墓域
 1) 尾張戸神社古墳
 2) 白鳥塚古墳
 3) 中社古墳、南社古墳
3. 東谷山西麓段丘の墓域と寺山古墳群
4. 東谷32号遺構
5. 大塚・大手古墳群、勝手塚古墳、羽根古墳
6. おわりに

  1. 犬塚康博「名古屋市守山区上志段味の古墳群に関する構造的考察」千葉大学大学院人文社会科学研究科編『千葉大学人文社会科学研究』第32号、千葉大学大学院人文社会科学研究科、2016年3月30日、47頁。
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2015年10月18日

天白・元屋敷遺跡二題

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志段味の自然と歴史に親しむ会の会報最新号に、天白・元屋敷遺跡に関する文章をふたつ発表しました。「天白・元屋敷遺跡の範囲」は、3月21日のシンポジウムの際、プリントとしてお配りしたものの定稿です。「川湊という物語」では、天白・元屋敷遺跡の川湊に関する諸問題について、発掘担当者の考え方の変遷や吉田富夫氏の論考などを通じて、考えてみました。どうぞご覧ください。

  • 「天白・元屋敷遺跡の範囲」志段味の自然と歴史に親しむ会世話人会編『私たちの博物館 志段味の自然と歴史を訪ねて』第67号、志段味の自然と歴史に親しむ会世話人会、2015年10月15日、15–22頁。
  • 「川湊という物語」、同書、23–28頁。
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2015年10月4日

犬塚康博「遺跡と人の交通誌―名古屋市守山区大塚・大久手古墳群」

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新しい論文を発表しました。どうぞ、ご覧ください。

要旨 名古屋市守山区上志段味字大塚・字大久手下にある大塚・大久手古墳群を開発する、同市教育委員会の事業計画「歴史の里」が進められている。発掘調査、国史跡追加指定、用地取得を経て、今年度から造成工が始まる。古墳群築造以来形成されてきた、同古墳群と人の交通が新たな段階を迎えるにあたり、その交通誌を整理して交通形態の分析へと進むべく本稿を草した。交通誌は、①「大塚」の時代:前近代、②長谷川佳隆の時代:前近代から近代への移行期、③「守山の古墳」の時代:近代、④後「守山の古墳」の時代:後近代、の四段階に整理できる。このうち、1954年以前の②と現在の④は、近代の希薄または不在において同質であり、権力の威信に直結する事大性において「極めて類縁性の高いことが判明した」。将来の後・後「守山の古墳」の時代に向けた課題として、字大塚・字大久手下の交通誌と上志段味の交通誌の二題への、同古墳群と人の交通の解放を提起した(1)

内容
1. はじめに
2. 「大塚」の時代
3. 長谷川佳隆の時代
 1) 志段味大塚古墳発掘前夜
 2) 志段味大塚古墳発掘の人類学
4. 「守山の古墳」の時代
 1) 形態論と時間論
 2) 「守山の古墳」の時代の考古学
5. 後「守山の古墳」の時代
6. 後・後「守山の古墳」の時代
 1)字大塚・字大久手下の交通誌
 2)上志段味の交通誌
  (1)志段味大塚古墳と永仁の壷
  (2)上志段味古墳研究のナラティブ
  (3)権力の威信への直結
7. おわりに

  1. 犬塚康博「遺跡と人の交通誌―名古屋市守山区大塚・大久手古墳群」千葉大学大学院人文社会科学研究科編『千葉大学人文社会科学研究』第31号、千葉大学大学院人文社会科学研究科、2015年9月30日、48頁。
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2015年8月16日

塚本古墳(2)

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塚本古墳
▲ 塚本古墳 北西から見る
塚本古墳
▲ 塚本古墳 北から見る
塚本古墳
▲ 塚本古墳 北北東から見る
塚本古墳
▲ 塚本古墳 東北東から見る
塚本古墳
▲ 塚本古墳 東から見る
塚本古墳
▲ 塚本古墳 南東から見る

上志段味山ノ田にあった塚本古墳の発掘調査報告書には、調査より前の古墳の写真がない。「1 調査前(北から)(1)」というキャプションをもつ写真があるが、これも、すでに古墳に手が加わったようすを呈している。工事中に発見されるまで、名古屋市教育委員会の認識にのぼっていなかったのであろう。

ここに、塚本古墳の外観写真がある。撮影年月日は、現在見出し得ていないが、1983年8月以降の1980年代前半であることは確かである。塚本古墳の残存墳丘を、北西から東側を半円弧を描くようにして南東へ移動し、撮影している。古墳の可能性を察知しておこなわれた撮影である。なお、耕作地に入らず、畦道を移動しているため、すべての方向から撮ってはいない。撮影者は犬塚。同行者は深田虎太郎氏。

  1. 名古屋市見晴台考古資料館編『塚本古墳』(名古屋市文化財調査報告81、埋蔵文化財調査報告書64)、名古屋市教育委員会、2011年3月28日、図版3。
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2015年7月26日

塚本古墳(1)

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▲ 1911年(明治44)の塚本古墳
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▲ 1985年の塚本古墳
名古屋市守山区上志段味山ノ田に、「塚本古墳」と命名された古墳がある。1995年に調査され、破壊された。その16年後に刊行された報告書は書く。

1995年、区画整理事業にともなう工事用道路建設中に、字山ノ田において古墳が新規に発見され、所在場所の通称から塚本古墳と名づけられた(1)

「新規に発見」とあるのは、1995年当時の名古屋市教育委員会が「新規に発見」したという意味である。

遅くとも1980年代前半までには、古墳の可能性が知られていた。1979年度に守山区の遺跡分布調査を担当した名古屋市教育委員会職員岡本俊朗氏の手控えの名古屋都市計画基本図には、塚本古墳の場所にあたる土地区画に「コフン」と手書きメモが添えられている。地元での聴きとり等で、得られたのであろう。

さらに大日本帝国陸地測量部の地図(2)には、山ノ田の集落と東山の集落の間の水田中に、ケバ線で囲まれたマウンドが描かれており、私たちの注意をひいていた。山ノ田から北西にゆく道は、東山から東にゆく道が、南に逆へ字状に屈曲する箇所で接続するが、そのやや南東、道の東側にマウンドは描かれていて、塚本古墳の場所に対応する。

発掘調査期間は1995年5月10日(水)~19日(金)で、土日閉庁日と雨天をのぞくと、実質5日間の調査であった。報告書には、「発掘調査期間の都合から十分に測量できなかった(3)」の一文が見られるが、正しくは、名古屋市教育委員会の遺跡把握の精度、程度が低かったために、事前に知りえたにもかかわらず見過ごし、工事中に発見、不充分な調査に結果させた、である。典型的な職務怠慢であった。この様式が、天白・元屋敷遺跡破壊や湿ケ遺跡破壊を生み、歴史の里至上主義を形づくってゆくことを知るのは容易だろう。(つづく)

  1. 名古屋市見晴台考古資料館編『塚本古墳』(名古屋市文化財調査報告81、埋蔵文化財調査報告書64)、名古屋市教育委員会、2011年3月28日、1頁。
  2. 二万分一地形図名古屋近傍第七号(共二十二面)水野村』、大日本帝国陸地測量部、1911年。
  3. 名古屋市見晴台考古資料館編、前掲書、1頁。
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2015年7月12日

野並谷1号墳 〔2〕

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野並谷1号墳の調査報告は、以下のとおりである。同古墳に直接かかわる記述は短いため全文を掲出し、これに後続する古墳の一般的説明は省略した。

これも我々の良き先生であるところの飯尾さんが、以前からこの野並地区をくまなく歩いて遺跡をさがしてこられ、幾多の窯跡や包含地などを発見されている。今度調査した古墳もその際に見つけられたものである。その時の話によると、三面を低い山で囲まれた小さな谷に、こんもりと木が生い茂り、ポツンといかにも不自然にあったそうで、さらにその周囲が堀になっていたとさえ思われるような形をし、湿地帯をなしていたそうである。後で調査の為、我々も同行したが、やはり同感であった。ここに書くのは、その時のおおよそのあらましです。調査は、十一月七日・十四日でした。古墳の発掘は今回が初めてなので、大へん興味をそそりました。しかし、発掘というものは、一種の破壊とも言えるため、この貴重な資料には、万全かつ真(ママ)重をきして行ないました。我々の見たところでは察しがつかないのですが、飯尾さんの、どうも前方後円墳らしいとの話を聞くと、なるほど●うなずけるところがあった。ともかく、木の生い茂っているのをスコップでかき分け上に上ってみました。ヨレヨレの服に長グツ、背にはナップサックを背負い、手にスコップを一丁といういわゆる未開地用発掘スタイル?で行ったので、大へん楽をしました。上ってみると、どうも後円部が西向きのようでした。その後後円部中央部付近に、何か土を掘り返したような地層の現われている所があった。これはどうも以前に盗掘をやった跡らしかった。古墳には昔しから盗難におそわれて貴重な副飾品などの遺産がフイになるケースが大へんに多く、特に鎌倉時代には、盗掘ブームさえ巻き起ったそうである。非常に残念な事である。我々は一応その部分にトレンチを50センチ四方程設けた。松などの枝が邪魔をして掘るのに苦労した。そこのところの土は大へん小石まじりでやわらかく、スコップが、サクッ、サクッとはいり予想通りきれいに中央部の重要なところだけ盗掘をした跡だということがはっきりした。これでは手の施しようがないので、遺構がどこまで伸びているか末端部分だけでも調査しようと、トレンチを東に50センチばかり広げた。幸にも、末端部だけは、取り止めることができた。さっそくきれいに掃除をして記録することにした。これは粘土槨といって、後で埋葬について参考資料によってそれに関連したことを書いておくが割竹形木棺を直接土中に埋め外面を全部厚く粘土●包むもので、何年かたって木が腐っても粘土だけが残るものである。(1)

津田素夫「野並谷1号墳について」(挿図)
▲ 津田素夫「野並谷1号墳について」(挿図)
津田素夫「野並谷1号墳について」(挿図)
▲ 津田素夫「野並谷1号墳について」(挿図)
津田素夫「野並谷1号墳について」(挿図)
▲ 津田素夫「野並谷1号墳について」(挿図)
(つづく)

  1. 津田素夫「野並谷1号墳について」『あゆち』創刊号、名古屋市立桜台高等学校歴史クラブ、1966年3月19日、85–86頁。
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