Miscellanea

2014年5月17日

「考古学だけやっていると頭が悪くなる」

Posted by fische in History, Miscellanea

小原博樹は、岡本俊朗を回顧して、次のように書いていた。

さて、名古屋に帰ってくることになった彼が「考古学だけやっていると頭が悪くなるから運動を紹介してくれ」(彼独特のいいまわしですので誤解なきよう)ということで、数年の間、見晴台と差別撤廃運動で歩みを共にした(1)

「頭が悪くなる」ことを「バカ」と言うならば、岡本の謂いは「専門バカ」批判のレトリックである。

私もこれをよく聞いていたが、職場の上司だった三輪克さんは、さらに、「専門バカではなくバカ専門」と言っていた。「専門をやっているとバカになるのではなく、バカが専門をやっているのである」と。名古屋大学の坂田昌一のもとで学んだ人らしく、〈理論的〉であった。

  1. 小原博樹「韓国、朝鮮問題、差別撤廃運動と岡本さん」岡本俊朗追悼集刊行会編『岡本俊朗遺稿追悼集 見晴台のおっちゃん奮闘記─日本考古学の変革と実践的精神─』、岡本俊朗追悼集刊行会、1985年8月2日、179頁。
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2014年3月29日

『伊勢湾地域古代世界の形成』を祝す

Posted by fische in Miscellanea

伊藤禎樹『伊勢湾地域古代世界の形成』、株式会社アットワークス、2014年3月20日、表紙・裏表紙。
▲ 伊藤禎樹『伊勢湾地域古代世界の形成』、株式会社アットワークス、2014年3月20日、表紙・裏表紙(部分)。

伊藤禎樹さんの著書『伊勢湾地域古代世界の形成』が20日に出版された。

掲載された論文は、発表当時にいただいた抜刷やコピーなどで接してきたものばかりだが、あらためて通読すると、伊藤さんの思想が貫徹するのを見る。近代が存在する。

そして、「あとがきにかえて―わたしの考古学―」で披露された、伊藤さんの歩みは特異である。帯の「尾張から照射する古代日本と東アジア/対峙するオワリとヤマト」に用いられた、二つの動詞が越境して言う。すなわち、伊藤さんの考古学は、職業研究者による官僚化した考古学に対峙し、堕落した現在を照射している、と。再演不可能な伊藤さんの考古学体験、その一部ではあるが、同行できたことは奇跡であり、幸運であった。

『伊勢湾地域古代世界の形成』を、心から、祝す。

〔書誌情報〕
伊勢湾地域古代世界の形成
イセワンチイキコダイセカイノケイセイ
著者名 伊藤禎樹 イトウサダキ
価格 本体3,200円+税
C-CODE 0021
ISBN 978-4-939042-95-9
サイズ A5
ページ数 404頁
発行年月日 2014年3月20日
発行所 株式会社アットワークス
http://atworx.co.jp/index.html
https://www.facebook.com/atworx2001

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2014年3月9日

“尾張から照射する古代日本と東アジア”

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伊藤禎樹『伊勢湾地域古代世界の形成』(株式会社アットワークス)フライヤー(部分)
▲ 伊藤禎樹『伊勢湾地域古代世界の形成』(株式会社アットワークス)フライヤー(部分)

伊藤禎樹さんの著書『伊勢湾地域古代世界の形成』のフライヤーが、本日、版元の株式会社アットワークスから届く。乞うご購読。

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2014年3月1日

予告: 伊藤禎樹『伊勢湾地域古代世界の形成』

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伊藤禎樹『濃尾地方の弥生文化の形成―地域文化の形成―』(考古学連続講座第2回)、立命館大学考古学研究会、1978年頃。
▲ 伊藤禎樹『濃尾地方の弥生文化の形成―地域文化の形成―』(考古学連続講座第2回)、立命館大学考古学研究会、1978年頃。

伊藤禎樹さんの著書『伊勢湾地域古代世界の形成』の今月下旬刊行が、版元であるアットワークスのホームページFacebookで、2月25日にリリースされた。これを受けて私も、急ぎツイートした。


地域における縄文と弥生の「闘争」を展開した、写真の書も収められている。

貝田町式土器内部にみられるこのような雑多な要素を包括していく方向が進行すれば、新しい地域文化の形成がおこなわれた筈であるが、畿内的弥生文化が後期に進入して独自な地域文化の形成は阻止され、畿内のコピー文化に堕落した高蔵式が成立する(1)

詳しくは、アットワークスのホームページ等で。
私からは、刊行後にあらためて。

  1. 伊藤禎樹『濃尾地方の弥生文化の形成―地域文化の形成―』(考古学連続講座第2回)、立命館大学考古学研究会、1978年頃、3折右頁。
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2014年1月25日

上志段味歴史の里呪いの里

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「呪いの人形(1983年4月11日撮影)」深田虎太郎「中世甕棺墓と呪いの人形」『私たちの博物館 志段味の自然と歴史を訪ねて』創刊号、志段味の自然と歴史に親しむ会世話人会、1985年8月30日、20頁。
▲ 「呪いの人形(1983年4月11日撮影)(1)

31年前、呪いの藁人形に遭遇した。場所は、名古屋市守山区上志段味の東谷山上。尾張戸神社北西側、東谷山中世墓の上に設けられた小建屋のまわりを進んだとき、目の前に人形が突然現れ、私は肝を潰した。生々しかった。

以下は、同道の人による記録。

甕棺墓の時代はともかく祠の東南の角の柱に、呪いの藁人形が多数の釘でしっかりと打ちつけられているのには、すくなからず驚かされてしまった。
N大学I教授の講義を引用すると、アメリカの呪術学者フレーザーの学説によれば、呪術には3種類があり、類感呪術、感染呪術、意志呪術、藁人形などは最後の意志呪術に属するものであると教えられた。のろいを唱えながら暗夜に1人多数の釘を打ちこみ、最後に5寸釘を人形の心臓に当たる箇所に打ち込むのが呪いの藁人形のパターンである。
藁人形の実測値―頭から足の先まで全長19.5cm、足の部分で3cm、手を広げだ幅が13cm、打ち込まれている釘の数―頭部54本、左右の手に14本、胴9本、左足8本、右足9本、それに心臓部に1本大釘が打ってあり、ほとんど人形の全身にすきまなく打ってあるが、釘の深さがまちまちであまり上手な仕上げではないようである。藁は昨年とり入れたときのものか? 古くとも1昨年ではないかと思われた。それによって造られた時期がおおかた推定出来る。
釘の総数95本、発見日時昭和58年4月11日午前11時頃。当日は午前中くもり午後から又雨となる(2)

当時は、誰かが個人的な恨みをはらすためにおこなったものだろうと思ったが、1983年といえば志段味・吉根地区で区画整理事業が具体化していた時期。4地区最初となる吉根の土地区画整理促進区域決定が1983年3月25日、組合設立認可が1984年3月30日であった。個人にとどまらない、社会的な恨みがあったのかもしれないと、いまは思える。人口増とともに増える犯罪、それにともなう警察巡回の増加。2011年9月、台風15号の影響による吉根・下志段味・中志段味の洪水被害・・・。そうでなければよいが。

それにしても、アミューズメント(おかしさ、おもしろさ、慰み、楽しみ、気晴らし・・・)で古墳を掘ってはいけない。
「呪いの人形(1983年4月11日撮影)」深田虎太郎「中世甕棺墓と呪いの人形」『私たちの博物館 志段味の自然と歴史を訪ねて』創刊号、志段味の自然と歴史に親しむ会世話人会、1985年8月30日、20頁。

  1. 深田虎太郎「中世甕棺墓と呪いの人形」『私たちの博物館 志段味の自然と歴史を訪ねて』創刊号、志段味の自然と歴史に親しむ会世話人会、1985年8月30日、20頁。
  2. 同論文、19-20頁。
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2013年11月9日

大衆の考古学

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私たちは見晴台で、「大衆の考古学」を創造しようとしたのである。それが、小原博樹の言う「運動として見晴台に参加した」の「運動」の意であった。

「大衆の考古学」とは何か。理論的作業は長文だが、次のようにまとめている。

「歴史の原動力は、ただ人民だけであり、人民が歴史を創造する」ことを明らかにし、被抑圧階級のなまの姿を復元しうる考古学の方法論的特色を十分発揮するのが、「大衆の考古学」である。西欧帝国主義のアジア・アフリカ人民の抑圧政策のなかで生まれた排外主義的性格、暴虐的な天皇制ファシズムに屈服し、日本文化の中の朝鮮的性格、沖縄的性格、アイヌ的性格を抹殺し、多くアジアの人々への犯罪的行為=侵略戦争へ加担していった日本考古学を、正しく綜括し、発展させていく内容が、「大衆の考古学」である。全くばかげた学閥、セクト主義を排し、国際的にも、あらゆる国の人達との平和を願う(無論現実的に)なかで創造される考古学が、「大衆の考古学」である(1)

換言すると「大衆の考古学」は、日本史・世界史を、考古学に外在的にするものではなく、内在的にするものである。前者は政治主義、後者は文化主義と言えようか。前者は、考古学そのものを問うことなく、政治に動員する(ヒキマワス)。後者は、考古学そのものを問い、政治も文化に還元する──。

全文を翻刻したいと考えている。

  1. 「見晴台発掘と僕達の考古学─「職人の考古学」↔「趣味の考古学」を止揚し、「大衆の考古学」を創造しよう!─ 」 伊藤禎樹、犬塚康博、岡本俊朗、小原博樹、斎藤宏、桜井隆司、村越博茂、安田利之『名考会と見晴台に関する問題提起─その2』、1972年11月26日、13頁。
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2013年9月14日

「運動として参加した見晴台」

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1970年代前半、小原博樹に引率され見晴台遺跡の発掘調査に参加した男子中学生が、参加の感想を求められたとき、「運動ができるからよいと思う」旨の応答をした。それを聞いた小原が、「一瞬、運動のことかと思ってびっくりした」と、うれしそうに話す場に居合わせたことがある。中学生が、身体を動かすことの意で言った運動を、小原は別の運動の意に受け取ったのである。小原にとって運動の語は、格別有意のように私には見えた。

小原の「運動として参加した見晴台(1)」とは何だったのか。

そのひとつは、逆説としての「運動として」である。調査としての(=素朴調査主義)、研究として(=研究主義)への反対である。調査のためだけの見晴台、研究のためだけの見晴台、つまり考古学だけの見晴台への反対である。大学で考古学を学んだ、小原ゆえのアンチと言える。そして小原自身、1977年に、考古学に関する蔵書を、仮設だった見晴台考古資料館に寄贈して、自己の考古学と訣別する。

もうひとつは、順説としての「運動として」である。どういう運動だったのか。オフィシャルな文章を引けば、次のとおりである。

発掘期間中、見晴台では、数々の企画を試み実行に移していった。毎日の見晴台ニュースの発行、案内板の設置、作業前後の集会、周辺遺跡の見学会、参加者全員の討論会等は、参加者が見晴台遺跡の性格と調査の目的をできるだけ理解しあい、同時に、発掘を通じて考古学の方法をともに学んでいくための試みであった。さらに、見学者へのニュースの配布と説明、現地見学会なども企画実行された。このような企画を通じて、見晴台遺跡の保存と活用への一般市民の参加の糸口は、わずかずつではあっても開かれてゆくであろう(2)

「市民参加」である。見晴台遺跡の市民参加運動と、仮に呼んでおこう。

ところで、この活動のメニューを見て想起するのは、満洲国国立中央博物館がおこなった博物館エキステンションである(3)。博物館エキステンションは、恐慌後のアメリカの博物館がおこなったmuseum extentionを参照した活動で、museum extentionは従来サービスを届けることのなかった地域、住民、総じて社会に博物館を拡張する運動であった。あらためてこの経験を踏まえれば、見晴台の運動は、見晴台を市民に拡張する見晴台エキステンションであり、考古学を主語にすれば考古学を市民に拡張する考古学エキステンションであったと言うことができる。その上で小原の関心の中心が、見晴台エキステンションの方にあったことは言を俟たない。

1979年に考古資料館が開館し、職員が配置され、見晴台エキステンションは行政の制度となった。満洲国の博物館エキステンションも、戦後日本の博物館法に越境して「定着」した。

わたしはいつしか見晴台とは疎遠になってしまったが、教育現場の一つの問題としてこだわり続けている(4)

1985年に小原がそう書いたのは、運動が去ったことの別の謂いであった。

  1. 小原博樹「韓国、朝鮮問題、差別撤廃運動と岡本さん」岡本俊朗追悼集刊行会編『岡本俊朗遺稿追悼集 見晴台のおっちゃん奮闘記─日本考古学の変革と実践的精神─』、岡本俊朗追悼集刊行会、1985年8月2日、179頁。
  2. 『見晴台遺跡第10次発掘調査の記録』、見晴台遺跡第10次発掘調査団、1972年12月1日、6頁。
  3. 犬塚康博「満洲国国立中央博物館とその教育活動」『名古屋市博物館研究紀要』第16巻、名古屋市博物館、1993年3月30日、11-50頁、同「再び満洲国の博物館に学ぶ-危機における博物館の運動論」『美術館教育研究』Vol.8、No.1、美術館教育研究会、1997年3月1日、3-12頁、など。
  4. 小原博樹、前掲論文、179頁。
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