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2015年5月3日

続・「名古屋城石垣 古墳の石転用か」異論

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「㉞刻印石」
▲ 「㉞刻印石」(部分)

先の正編で、次のように書いた。

さらに学芸員の言う、「今後、古墳周辺で刻印石が見つかれば、名古屋城への転用を証明できる」は倒錯である。東谷山で刻印石が見つかっても、名古屋城への転用は直接に証明することはできない(1)

以下は、証明できないことの証明である。

刻印石は、名古屋市中区の紫川遺跡の発掘調査で見つかっている。これを出品した展覧会図録は、写真とともに次のように書いた。

㉞刻印石
江戸時代の城下町に流れていた紫川(水路)の護岸の敷石として使われていたもので、名古屋城の石垣に見える刻印に酷似した印が刻まれている。築城時代の残石が利用されたものか。(現中区大須一丁目出土(2)

「築城時代の残石が利用されたものか」とは、疑問形で書く通りにこれは想像であり、刻印石が名古屋城以外で知られていなかった当時の現状を背景に、「城下町・名古屋」という展覧会タイトルに寄せて、名古屋城への想像力を誘ったものと考えられる。このキャプションの執筆者は不明だが、展覧会の主担当は岸雅裕氏であり、厳しい史料批判で知られる研究者であったから、逸脱はしていないとみなしてよい。

事実は、刻印石が名古屋城と紫川遺跡で確認されているということである。展覧会が開催された1987年以後の、発見例があるかもしれない。いずれにしても、「今後、古墳周辺で刻印石が見つかれば、名古屋城への転用を証明できる」というのは明白な虚偽で、名古屋城または紫川への転用が想念される程度なのである。厳密には、前回書いた次のとおりである。

論理的には、名古屋城石垣の石に東谷山の古墳の石であることを証明するものがなければならない。つまり、たとえば楔痕を境にして分かれてしまった石の片方が東谷山に、もう一方が名古屋城にあるような接合資料の確認こそが、明々白々な証拠となる。石の目が接合する場合も含まれるだろう(3)

なお、この刻印石は名古屋市博物館に蔵されている。

  1. 「名古屋城石垣 古墳の石転用か」異論
  2. 名古屋市博物館編『開館10周年記念特別展 城下町・名古屋 江戸時代の町と人 一九八七・九・二十六~十一・一』、名古屋市博物館、1987年9月25日、21頁。
  3. 「名古屋城石垣 古墳の石転用か」異論
2013年12月28日

愛知の管理教育と朝日遺跡群破壊

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仲谷義明「序」愛知県教育委員会編『朝日貝塚予備調査報告』、愛知県教育委員会、1970年3月、(序の頁)、同「序」(奥付なし)(『貝殻山貝塚調査報告』、愛知県教育委員会、1972年)、(序の頁)。
▲ 仲谷義明「序」愛知県教育委員会編『朝日貝塚予備調査報告』、愛知県教育委員会、1970年3月、(序の頁)、同「序」(奥付なし)(『貝殻山貝塚調査報告』、愛知県教育委員会、1972年)、(序の頁)。

過日Twitterで、知己 @polieco_arche とやりとりをしていて想起したことを少々。

私が高校に通っていた頃は、愛知の管理教育(1)全盛だった。幸運にも私は県立高校でなかったから、直接の被害は蒙らなかったし、三校禁はあったものの、お構いなしに交流していた。管理教育のシンボルは教育長の仲谷義明(2)。まだ潔癖だった高校生には、悪魔のように見えた。やがて県知事になり、退職後に自殺。五輪招致失敗を苦にしてのことと言われ、いまなお都市伝説の様相を呈している。

仲谷が教育長だったときに起きたのが、1971年の朝日遺跡群破壊事件である。報告書の「序(3)」に、その名が見える。通常、知事本人が書くことは稀で、下級役人が起案し決済をとる。当時の県教委の文化財担当は柴垣勇夫であった。

これより遡って、私が中学生のとき、学校の野外活動で遠方にでかけるのに際して、その付近の遺跡の教示を乞いに、級友と二人で愛知県教育委員会の所轄課に行ったことがある。学校から歩いて5分もしない場所で、通学路でもあったから、教師に相談もせず気安く思い立って事前に電話をし、しかし緊張しながら出かけた。西庁舎の上の方の階へゆき、主旨を伝え話を聞き分布地図のコピーをもらった。私たちに応対した無愛想な人は、「掘るんじゃないぞ」だったか「壊すんじゃないぞ」と付け加えた。中学生にとって、その否定形は威圧的であった。私は、何か悪いことをしているような気分に苛まれた。

以下は後知恵だが、考えてみれば、中学生ができる破壊など知れたもので、じきに起こった朝日遺跡群の破壊の比ではない。分野は異なるが、大阪市立自然史博物館の日浦勇が、自然と人間を「物質的なかかわり」(資源としての自然、環境としての自然)と「精神的なかかわり」(モチーフとしての自然、風土としての自然)とにおいてとらえ、昆虫採集犯罪論に慎重だったのとは雲泥の差がある。(4)

柴垣は、当時二十歳代後半で、文化財保護という権力行政と教育の区別ができなかったのだろうか。そしてその人が、やがて愛知県陶磁資料館に籍を置くのだから、世の中は摩訶不思議である。とは言っても、同館は教育委員会ではなく知事部局所管だから不思議でないのかもしれないが、博物館人、廣瀬鎮だったらあり得ない「掘るんじゃないぞ」「壊すんじゃないぞ」の思想の持ち主が、博物館していたのである。仲谷の管理教育時代の文化財行政は、柴垣が執り行っていた。柴垣に限らず、県の教育行政全体の文化が仲谷的だったのだろうが、高校生の私には仲谷すなわち柴垣であった。

  1. 管理教育 – Wikipedia」。
  2. 仲谷義明 – Wikipedia」。
  3. 仲谷義明「序」愛知県教育委員会編『朝日貝塚予備調査報告』、愛知県教育委員会、1970年3月、(序の頁)、同「序」(奥付なし)(『貝殻山貝塚調査報告』、愛知県教育委員会、1972年)、(序の頁)。
  4. 日浦勇「われわれにとって「蝶」とは何か―放飼問題を考えるために(I)―」日浦勇著、日高敏隆・堀田隆・千地万造・柴田保彦・瀬戸剛・宮武頼夫・那須孝悌編『日浦勇著作集』、日浦さんの遺稿出版する会、1984年10月10日、296-298頁。初出は『やどりが』80・90号、1977年、35-37頁。
2013年8月31日

考古学と社会教育と

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▲ 『中日新聞』、1970年3月19日。


▲ 『朝日新聞』、市内版、1971年8月4日。

婦人学級から自主グループが誕生して、講義や体験学習を継続するとは、なんと理想的、模範的な社会教育実践であることか。

考古学と社会教育──。たとえば「考古学と社会教育はいかにあるべきか」という問いを立てることも思いつかないほどに、いまでは自明の両者である。社会教育法-博物館法上の学芸員を流用、濫用して、埋蔵文化財担当職員に充当してきた世俗的事情もあるに違いない。もちろん、そうでない自治体、企業があることは百も承知である。

ところで、名古屋市において、考古学と社会教育の共存が明示的になったのはいつ頃からだろうか。見晴台遺跡発掘調査で概観すると、第9次以前の報告書に「社会教育」の語はなく(1)、第10次のそれから登場する。

見晴台遺跡の調査を、一方では科学的な調査研究の場としていくとともに、他方では多くの市民に支えられた文化活動・社会教育の場としていくことが強く意図されていたからである(2)

これは、名古屋市見晴台考古資料館じしんも引用しており(3)、記念碑的な一文である。これが発掘調査について説くのに対し、次は見晴台遺跡総体に言い及んでいる。

さいわい、見晴台遺跡は史跡公園として保存することが決定され、資料館の建設も予定されて、市民の社会教育と歴史教育の場として活用する方針が明らかにされている(4)

考古学と社会教育の語の存否は、奇しくも発掘調査団団長が吉田富夫の時代(第1~9次)とその後とに分かれるかたちとなった。当の吉田も、史跡公園論や博物館論を披露しながら、そこに「社会教育」の語はなかった。吉田に限らず、考古学関係者の術語に普及していなかったと言ってよいだろう。学芸員有資格者を採用するシステムが登場し、資格を取得することを目的とした個人、世代が登場して、はじめて意識されるようになってゆく。1951年に博物館法が制定され、学芸員の制度が誕生してようやく20年が過ぎる頃のことであった。

そして「社会教育」の語は、従来の考古学関係者には、役人用語ととらえられることも往々にしてあった。さらにこの傾向は、学芸員として行政に内在した考古学研究者にも、こののち散見することになってゆく。これは、ひろく博物館一般に見られる、「研究」と「教育」の対立に通じる問題群、その一端と言うことができるが、別の機会に考えてみたい。

それはさて措き、吉田富夫と蓬左グループ。考古学と社会教育が、たがいをよく知ることがなくても、おおきな物語─たとえば国民国家のような幻想─のもと無自覚にあったからこそ築きえた理想的、模範的関係。とりあえず、そのように記憶しておこう。

  1. 名古屋市教育委員会編『見晴台遺跡第I・II・III次発掘調査概報』、名古屋市教育委員会、1966年3月25日、1-72頁、同編『見晴台遺跡第IV・V次発掘調査概報』、名古屋市教育委員会、1968年3月31日、1-58頁、『名古屋市南区見晴台遺跡第IX次発掘調査の記録』、見晴台遺跡発掘調査団、1971年10月1日、1-13頁。
  2. 『見晴台遺跡第10次発掘調査の記録』、見晴台遺跡第10次発掘調査団、1972年12月1日、1頁。
  3. 『─第20次記念─見晴台遺跡発掘調査のあゆみ』、名古屋市見晴台考古資料館、1981年7月20日、28頁。
  4. 『見晴台遺跡第10次発掘調査の記録』、15頁。
2013年7月20日

目で見る名古屋の文化史展

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吉田富夫は書いた。

私の収集は、小学校5~6年のころ、コインを親からもらうのを楽しみとすることにはじまる。そして中学に進んで、歴史の時間に、尾張国分寺の跡が矢合にあって、当時の古瓦が出ることを聞いて、実地に臨むと、破片が落ちていて、これを手にしたのが、考古学に足を踏み入れたはじめである。
その後その熱がこうじて、昭和2年に愛知県史蹟名勝天然記念物展覧会が開かれると、その出品物からいろいろな遺跡を知り、実査する日が多くなり、中学を卒業すると親に無理を言って、あこがれの京都帝大で浜田青陵博士の許で学習するようになり、家庭の事情で三年後帰郷すると、間もなく東京の森本六爾氏に知られ、当時新しく発見した西志賀貝塚を発掘調査した結果を、東京考古学会の「考古学」に発表して、同人に推薦された(1)

吉田の考古学のはじまりを知ることのできる、数少ない文章のひとつである。『吉田富夫コレクション(2)』でも引用した。家族、学校、展覧会、大学と、世界が拡大してゆくようすがわかる。事後的に吉田が、そう整理したものであってもよい。説得的である。就中、1927年5月、松坂屋で開催された「愛知県史蹟名勝天然紀念物展覧会」のくだりは、ミュージアム・スタディーズの観点からたいへん興味深い。

いまは、多様なテーマの展覧会が、全国各地で日常的におこなわれている。しかし当時はそうでなく、好むテーマの展覧会に観客が接することは困難だったに違いない。展覧会が、いつどこで開催されるか。つまり、観客の年齢や観客の居住地から会場へのアクセスといった具体的な条件、制約が、観客の人生に正負作用したであろう。結果論とは言え、多感な15歳の時に、自分の住む町で、吉田がこの展覧会に出遭ったのは奇蹟と言うよりほかはない。

卑近で想い起こされるのは、「目で見る名古屋の文化史展」である。1969年10月1日から26日にかけて、名古屋城天守閣を会場にして開催された。主催は、名古屋市教育委員会、名古屋市、名古屋城振興協会、中日新聞、名古屋タイムズ社、愛知県博物館協会。縄文時代から明治までの文物が多数出品された。同展の解説書『目で見る名古屋の文化史展(3)』に稿を寄せる吉田富夫、佐々木隆美、豊場重春、岡本柳英、市橋鐸、林董一、磯谷勇、坪井忠彦、舟橋寛治らのキュレーションによるものであったと思われる。少なくとも考古資料は、吉田のそれであったことは間違いない。

展覧会の光景は憶えていない。吉田が体験したような地理的拡張は、すでに図書などで果たしていたから、展覧会の私に及ぼすところではなかったように思う。「実物を見た」ということに尽きるだろう。その10年と半年後、展示された考古資料の多くを手にしておこなう仕事に就くとは、誰が想像しただろう。

吉田富夫にとっての「愛知県史蹟名勝天然紀念物展覧会」が、私にとっては「目で見る名古屋の文化史展」であった。

  1. 吉田富夫「私の考古学的収集」『集成館パンフレット』No.4、荒木集成館、(1971年6月)、1頁。
  2. 名古屋市博物館編『吉田富夫コレクション』、名古屋市博物館、1982年4月29日、1-62頁。
  3. 名古屋市教育委員会編 『目で見る名古屋の文化史展』、名古屋市教育委員会、1969年10月1日、1-43頁。
2013年7月13日

名古屋市教育館の展示

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名古屋市教育館の展示 1969年

名古屋市博物館は1968年計画、1977年開館、名古屋市見晴台考古資料館は1971年計画、1979年開館である。これ以前、「大都市」名古屋に歴史系博物館はなかった。

「一九二〇年代後半、名古屋市は「大正天皇即位記念」「市民の精神統一」を掲げて史伝参考品陳列館設置を計画し、募金活動も進めたが実現していない(1)」。「一九三〇年頃、名古屋商工会議所による名古屋博物館計画や、名古屋郷土会による郷土博物館計画が登場する(2)」が、それ以上のものとはならなかった。

敗戦後の1950年4月、「塚本名古屋市長と徳川義知黎明会々長との間で文庫の購入契約結ばれ(3)」て開設された蓬左文庫は、博物館ではなく図書館であった。1930年に宮内省から下賜された離宮すなわち名古屋城は、翌年から公開され、国宝(のちに重要文化財)を擁し、戦後はそれ自体が特別史跡、名勝となるが、これを歴史系博物館とい言うには未分化であった。戦後、復元天守閣で歴史の展示を催したり、焼失した天守閣の跡地から出土した考古資料を展示するなど、歴史系博物館の様相を呈するも、基本的性格は古美術館だったからである。このように名古屋市は、1970年代後半まで歴史系博物館を自ら実現できずにいた。

そうした博物館以前、資料館以前、名古屋市教育館で見晴台遺跡の出土遺物が、小規模ながら常設で展示されていた。2階の暗いロビーの壁際に設えられた展示ケース(4)に、土器、石器などが列んでいた。いつからおこなわれていたのかは知らないが、博物館、資料館まだなき頃の、名古屋市における歴史および考古プロパーの展示、その嚆矢であった。それは、教育館の利用者の中心すなわち学校の教員を対象にした普及、宣伝だったのかもしれない。私たちが、学校から引率されて見学したことはなかったが。

この展示には、吉田富夫や三渡俊一郎をはじめ名古屋考古学会の人たちがかかわったのであろう。1964年に発掘調査が始まった見晴台遺跡をめぐる「ひと」「もの」「こと」は、ひとり名古屋市見晴台考古資料館に継続しただけでなく、同市における歴史系博物館的実践一般、その原像の一端を担っていたのではないか。そう思わずにはいられないのである(5)             

  1. 犬塚康博「一九四五年以前名古屋の博物館発達史ノート」『関西大学博物館紀要』第10号、関西大学博物館、2004年3月31日、286頁。
  2. 同論文、285頁。
  3. 「蓬左文庫略年表」名古屋市博物館編『名古屋市移管三十周年記念 蓬左文庫名品展』、名古屋市博物館、1980年12月1日、74頁。
  4. その後この展示ケースは、仮設考古資料館、考古資料館の地下で、それと意識することなく見ていたように思い起こすが、記憶違いかもしれない。
  5. このほかに、熱田図書館がよく展示を開催していた。初代館長・服部鉦太郎の尽くすところ大きく、館報『ライブラリーあつた』でそのようすを知ることができる。徳川美術館でも歴史の展覧会を開催していた。いずれも常設ではなかった。常設としては、1970年10月31日に開館した荒木集成館が先駆である。
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