池田陸介先生ご逝去

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▲ 池田陸介先生の長寿と出版を祝う会(2016年6月11日)

2017年6月18日、池田陸介先生がお亡くなりになりました。享年九十四。
私事、1971年の第9次見晴台遺跡発掘調査以来、多くの場面でお付き合いくださいますとともにお力添えを賜り、心から御礼申しあげます。ありがとうございました。どうぞ安らかにお眠りください。

http://archaeologyscape.kustos.ac/index.php?s=池田陸介&Submit=Search

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池田陸介先生の長寿と出版を祝う会

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▲ チラシ掲載の新聞記事から
池田陸介先生からおたよりをいただきました。

「池田陸介先生の長寿と出版を祝う会」が開催されます。1986年に出版された先生の著書『南区の歴史探訪』の、30年ぶりの増補再版にあたりおこなわれるものです。くわしくは写真をクリックしてひらくチラシをご覧ください。

日時 2016年6月11日(土)午前10時~12時
場所 名古屋市南生涯学習センター視聴覚室
内容 名古屋南部の大古墳群――カブト山古墳・三ッ屋古墳・斎山古墳・石神古墳――
主催 南歴遊会、ブックショップマイタウン

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蛸畑遺跡〔4〕

『緑区の考古遺跡(1)』によると、次の記事が、蛸畑遺跡に関する考古学的なそれの最初という。

蛸畑
緑区鳴海町蛸畑
「尾張志」などの古文献に、この地貝殻を出すよしを記しているが、現在具体的な位置はあまり明確ではない。したがって、それが確実に貝塚であるかどうか、その性質は今日学問的に解明できないが、発見史的に鳴海としては古く、しかも唯一の文献的事実としてよく知られているものである。将来その位置もわかり、性質も明らかになる日が来るならば、きわめておもしろかろう。(吉田(2)

1963年4月1日、愛知郡鳴海町が名古屋市に編入されて緑区となったことを受けて、『名古屋史蹟名勝紀要』は「緑区」の事蹟を増補した。その中に「蛸畑」が加えられた。これ以前における近代の考古学的言及の存否は、現時点で不明である。たとえば、鳴海町町長で雷貝塚を調査した野村三郎は、知り及んでいただろうか。

  1. 三渡俊一郎・松岡浩・吉村睦志・池田陸介『緑区の考古遺跡』(文化財叢書第69号)、名古屋市教育委員会、1976年10月15日、1-88頁。
  2. 吉田富夫「蛸畑」名古屋市文化財調査保存委員会『改訂増補版名古屋史蹟名勝紀要』、株式会社名古屋泰文堂、1963年11月12日(初版:1951年11月18日)、177頁。
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見晴台学園

池田陸介先生の著書の著者紹介には、「退職後、南社教センター、見晴台考古資料館、見晴台学園、豊田高専(1)」として、先生の活動の場が列記されている。過日池田先生とお会いしたとき、そのうちの「見晴台学園」(http://www.miharashidai.com/)に話題がおよんだ。

同学園設立前後、関係の方たちが池田先生を見晴台考古資料館にたずねて来られたという。相談を受けた池田先生は、以後同学園に深く関わってゆく。南区で誕生した同学園は、見晴台の名を冠するのであった。

見晴台の理性は、考古学にとどまることなく、自由に拡張していった。小原博樹が、岡本俊朗が、そうであったように―。大衆の考古学の精神は、物質化していったのである。

北海道家庭学校(http://kateigakko.org/)の第5代校長をつとめた谷昌恒を想起しよう。東大地質の教員の将来を嘱望されながら、終戦直後の戦災孤児に打たれ、それまでの専門を離れて社会福祉へと進んだその人、その精神、その物質を。

一昨年か一昨々年、大須通を西へ向かい、黄金跨線橋をくぐってさらに行ったとき、見晴台学園と書かれた建物に出くわすことがあった。「ああ、ここなのか・・・」。中川区にある見晴台学園は、いまもなお、「見晴台」と有縁なのだ。

  1. 「Amazon.co.jp: あゆち風土記: 池田 陸介: 本」http://www.amazon.co.jp/%E3%81%82%E3%82%86%E3%81%A1%E9%A2%A8%E5%9C%9F%E8%A8%98-%E6%B1%A0%E7%94%B0-%E9%99%B8%E4%BB%8B/dp/4885193524、2014年5月28日
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