なにこれ、歴史の里?

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▲ 『朝日新聞』、1969年5月20日(部分、一部改変、画像クリックで別枠オープン。)※大きな画像

古い新聞切り抜きを見ていたところ、「古墳群に大娯楽施設」の文字の踊る記事(1)が視野に飛び込んできた。ちょうど、「上志段味の古墳群に「歴史の里」という娯楽施設をつくるということもあって(2)」と講演したところであり、余計に印象深く、紹介することにした次第。

市長のコメント、「古墳だけでは人が集まりにくいので、施設をつくるようにした」は既視感がある。歴史の里も集客大前提の施設(ハードウェア)であり、さらに事業(ソフトウェア)も企てられる。基本的には、この市長と同じ思想「古墳だけでは人が集まりにくい」のあることが透けて見える。

「このままほうっておくより、多くの人に見てもらった方が文化財保護の関心も強まるのではないか」とは、皮肉であった。放っておかずに大娯楽施設計画をたてたら、文化財保護運動が起きて、関心が強まったからである。この発想は、意識を高めるために弾圧するというのに等しい。

それはさて措き、放っておいたのは誰かで、同市の文化財保護行政の怠慢であろう。市長としての自己反省がここにはない。歴史の里も、これと基本的に変わらない。放っておかずに歴史の里を作り、文化財保護の関心を強める、というコースである。この場合は、弾圧ではなく、生かす権力となる。

しかし、集客主義、観客至上主義は、演者を酷使する。サーカスなら動物を、歴史の里なら古墳を。視野狭窄的に、近視眼的に、刹那的に、いまこのときのためだけに消尽しようとする。上意下達、自己中心の官僚的な文化財保護は、葬送されてしかるべきである。

「原形保存か観光か」の設問はいかに。歴史の里では、原形保存よりも原形破壊が志向されている。志段味大塚古墳の復元造成然り、東大久手古墳の発掘体験然り。そして、観光である。歴史の里は、「原形保存か観光か」ではなく「原形破壊も観光も」というポストモダン戦略が敷かれていることになる。

記事は、あらためて言うまでもなく、高松市にある国指定史跡石清尾山古墳群が、県、市、民間による娯楽施設開発により危機的状況を迎えていた問題をあつかったもの。石清尾山古墳群守る会が結成されて、全国的な保存運動が展開され、古墳群の破壊はまぬかれ、現在は古墳群を活かした高松市峰山公園が経営されている。ただしそれは、歴史の里のように、古墳群を酷使しはしない。諸施設とは棲み分けられて、しずかに「永遠」の眠りに就いている。

  1. 「史跡 原形保存か観光か/古墳群に大娯楽施設/高松市石清尾山/文化人らは非難の声」『朝日新聞』、1969年5月20日、14面。
  2. 「志段味の遺跡をたずねて」、2015年6月10日。
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天白・元屋敷遺跡の幸せ

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▲ 中志段味、吉根で配布された名古屋市教育委員会のチラシ

3年前の天白・元屋敷遺跡の破壊について、10月20日に中日新聞朝刊が報道した。CBC、NHK、メ~テレ、毎日新聞、東海テレビ、朝日新聞、テレビ朝日等がそれに続き、インターネット上のさまざまな媒体でも言及されていった。

2010年から2011年にかけておこなわれた、名古屋まちづくり公社と名古屋市中志段味特定土地区画整理組合による天白・元屋敷遺跡の大規模破壊は、埋蔵文化財の取り扱いが、単なる事務処理になったことを示した。役所と関連機関の中で、熟読されることなく書類にはんこが押され、右から左へと流れてゆく、あのありふれた光景が浮かぶ。当事者は「手続きミス」「勘違い」としか言わないが、能う限りの責任回避、自己保身の弁なのだろう。国民に開かれた文化財に関して不具不能の者たち──文字通り非国民──、国民に開かれない内向きの者たちの弁だとすればうなずけないこともない。

30年前、天白・元屋敷遺跡はどのように扱われていたか──。手許にある当時の配布物5点(1)を手がかりに見てみよう。区画整理組合が設立されていないころ、遺跡の調査は名古屋市教育委員会が直営、国庫補助金等公費でおこなっていた。1979年に発見されたばかりの、この遺跡の性格と範囲を確認するために、小規模な発掘区を設け、数次にわたって実施していた。その際には見学会をおこない、出土遺物の展示もした。当時はあたりまえの光景だが、いまからすれば、とてもていねいに映る。天白・元屋敷遺跡は、まだ幸せだった。

名古屋市教育委員会は、なぜこの遺跡の範囲や実態を確認していたのか。「現在検討が進められている区画整理事業とは、直接の関係はありません(2)」として、間接の関係を暗示していた。すなわち、区画整理で破壊される遺跡の調査費用を、将来設立される区画整理組合に負担させるために必要な基礎データを集めていたのである。

このころは、調査に関するチラシがよく配布されていた。その文面では、「地元の皆様(3)」「皆様方(4)」「土地所有者のみなさん(5)」「周辺にお住まいの方々をはじめ、皆様(6)」すなわち近未来の区画整理組合組合員、発掘調査費用の負担者に対し、慇懃な呼びかけがおこなわれていたが、これはすべて、発掘調査費用を負担する原因者へのお作法、あるいはお便法だったのだ。

1995年12月に、名古屋市中志段味特定土地区画整理組合の設立認可が公告された。それ以降の詳細を知らないが、大規模破壊後付け焼き刃の「遺物回収作業」のときも、現在の発掘調査においても、その成果は地元および市民に公開されていない。かつては、報告書を刊行し、なおかつ「スライド、出土品等を使用(7)」する報告会もおこなっていた。事業者が民間すなわち区画整理組合だから、報告会を開催できないということはない。名古屋市吉根特定土地区画整理組合は、名古屋市教育委員会とともに現地説明会を開催していた(8)。中志段味でやれない理由はない。やらないだけである。それに対して教育委員会は、なぜ指導しない?遺跡調査の金を出させるまでは地元に対しベタベタに媚びて、金を出させたらもうそれっきりなのか?そして自分たちは、金目目当ての墓暴き、墓泥棒さながら古墳を掘り散らかし弄んでのお楽しみか?自分たちが、「生き残り」とか称してプレイヤーになってしまっては、民間に対して指導できるはずもない。

役所と関係機関における、単なる事務手続きとして埋蔵文化財が取り扱われ、ミスがあってもスルーされて、天白・元屋敷遺跡は大規模破壊された。破壊の事後処理も、始末書と「遺物回収作業」という内向きに終始した。役所と関係機関の外部には、3年間何も知らされなかった。わたくしを含めたごくごく少数の人間が、自力でその事実を知り、外に対して発信していた以外は──。

1980年代後半のバブル景気のころ、発掘調査は工期の一部に定着し、考古学とは別の相貌を得ていった。そしていま、発掘調査は単なる事務手続きと化した。不幸せな天白・元屋敷遺跡が、そう教えている。

  1. 「遺跡発掘調査概要報告会開催のお知らせ」、名古屋市教育委員会、(1985年4月13日配布)、「発掘調査開始のお知らせ」、名古屋市教育委員会、(1985年12月配布)、「─遺跡発掘調査概要報告会のお知らせ─」、名古屋市教育委員会、(1986年6月1日までに配布)、「天白・元屋敷遺跡第3次発掘調査開始のお知らせ」、名古屋市教育委員会。1995年、「現地説明会開催のお知らせ」、名古屋市教育委員会・名古屋市吉根特定土地区画整理組合、(1985年10月22日配布)。PDFファイル参照。
  2. 「発掘調査開始のお知らせ」。
  3. 「遺跡発掘調査概要報告会開催のお知らせ。
  4. 同チラシ。
  5. 「発掘調査開始のお知らせ」。
  6. 「天白・元屋敷遺跡第3次発掘調査開始のお知らせ」。
  7. 「─遺跡発掘調査概要報告会のお知らせ─」。
  8. 「現地説明会開催のお知らせ」。
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考古学と社会教育と


▲ 『中日新聞』、1970年3月19日。


▲ 『朝日新聞』、市内版、1971年8月4日。

婦人学級から自主グループが誕生して、講義や体験学習を継続するとは、なんと理想的、模範的な社会教育実践であることか。

考古学と社会教育──。たとえば「考古学と社会教育はいかにあるべきか」という問いを立てることも思いつかないほどに、いまでは自明の両者である。社会教育法-博物館法上の学芸員を流用、濫用して、埋蔵文化財担当職員に充当してきた世俗的事情もあるに違いない。もちろん、そうでない自治体、企業があることは百も承知である。

ところで、名古屋市において、考古学と社会教育の共存が明示的になったのはいつ頃からだろうか。見晴台遺跡発掘調査で概観すると、第9次以前の報告書に「社会教育」の語はなく(1)、第10次のそれから登場する。

見晴台遺跡の調査を、一方では科学的な調査研究の場としていくとともに、他方では多くの市民に支えられた文化活動・社会教育の場としていくことが強く意図されていたからである(2)

これは、名古屋市見晴台考古資料館じしんも引用しており(3)、記念碑的な一文である。これが発掘調査について説くのに対し、次は見晴台遺跡総体に言い及んでいる。

さいわい、見晴台遺跡は史跡公園として保存することが決定され、資料館の建設も予定されて、市民の社会教育と歴史教育の場として活用する方針が明らかにされている(4)

考古学と社会教育の語の存否は、奇しくも発掘調査団団長が吉田富夫の時代(第1~9次)とその後とに分かれるかたちとなった。当の吉田も、史跡公園論や博物館論を披露しながら、そこに「社会教育」の語はなかった。吉田に限らず、考古学関係者の術語に普及していなかったと言ってよいだろう。学芸員有資格者を採用するシステムが登場し、資格を取得することを目的とした個人、世代が登場して、はじめて意識されるようになってゆく。1951年に博物館法が制定され、学芸員の制度が誕生してようやく20年が過ぎる頃のことであった。

そして「社会教育」の語は、従来の考古学関係者には、役人用語ととらえられることも往々にしてあった。さらにこの傾向は、学芸員として行政に内在した考古学研究者にも、こののち散見することになってゆく。これは、ひろく博物館一般に見られる、「研究」と「教育」の対立に通じる問題群、その一端と言うことができるが、別の機会に考えてみたい。

それはさて措き、吉田富夫と蓬左グループ。考古学と社会教育が、たがいをよく知ることがなくても、おおきな物語─たとえば国民国家のような幻想─のもと無自覚にあったからこそ築きえた理想的、模範的関係。とりあえず、そのように記憶しておこう。

  1. 名古屋市教育委員会編『見晴台遺跡第I・II・III次発掘調査概報』、名古屋市教育委員会、1966年3月25日、1-72頁、同編『見晴台遺跡第IV・V次発掘調査概報』、名古屋市教育委員会、1968年3月31日、1-58頁、『名古屋市南区見晴台遺跡第IX次発掘調査の記録』、見晴台遺跡発掘調査団、1971年10月1日、1-13頁。
  2. 『見晴台遺跡第10次発掘調査の記録』、見晴台遺跡第10次発掘調査団、1972年12月1日、1頁。
  3. 『─第20次記念─見晴台遺跡発掘調査のあゆみ』、名古屋市見晴台考古資料館、1981年7月20日、28頁。
  4. 『見晴台遺跡第10次発掘調査の記録』、15頁。
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岡本俊朗

その人、岡本俊朗が逝って30年。

写真は、岡本俊朗追悼集刊行会編『岡本俊朗遺稿追悼集 見晴台のおっちゃん奮闘記-日本考古学の変革と実践的精神-』、岡本俊朗追悼集刊行会、1985年8月2日、1-588頁、が刊行されたときの新聞報道。

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▲毎日新聞 1980年8月3日以前


▲中部讀賣新聞 1985年8月3日(土)市内版


▲朝日新聞 1985年8月12日(月)夕刊


▲中日新聞 1985年8月26日(月)県内版

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